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2015.06.10  あすなろ125 ご先祖様(過去記事)

2012.03号

我が家では、よく市の図書館から本を借りてきます。
そしてたまに、手許に置いておきたい本を見つけると、後日買ってしまうことがあります。

先日も、たまたま借りた本を娘(三歳)がいたく気に入ってしまって、
まあ買ってもいいかなというようなものだったので、買ってしまいました。


sengoku.png


『ビジュアル版 戦国武将大百科』

東日本編、西日本編、合戦編の計三冊。

毎晩寝るときに、これは誰と言いながらページをめくっていたら、
絵を見て「とよとみひでよし」とか「ちょうそかべ」とか言うようになってきました。
四月から幼稚園です。

......どうなっちゃうんでしょう、この人。

まあ、それはともかくとして、そのあたりの時代の話は、私も嫌いじゃないです。

さて、この本には、私のご先祖様関連とされている人が、二人掲載されています。
いや、別に先祖自慢をするつもりではありません。
こういう話が好きな人が少なくとも一人いるので、ネタを振ってみようかと。

ご先祖様のうちの一人は、朝倉義景です。
中学の教科書には、
「織田・徳川連合軍が、朝倉・浅井連合軍を姉川の戦いで破った」
と、一行だけ載っていました。
今はどうかわかりませんが。

朝倉義景は、越前の戦国大名です。
越前は、今の福井県です。
義景が当主となったころ、朝倉家は、それなり有力な守護大名でした。
しかしその後、義景はチャンスを何度も逃し、家臣に逃げられ、滅亡します。
今や、戦国武将マニアからは、無能の代表選手扱いです。

室町時代中期、応仁の乱が起こります。
その頃、8代将軍足利義政(銀閣の人)は「諸国の沙汰は力次第」なんてことを言って、
各大名の他国侵略を公認にしてしまったために、徐々に各地に
戦国大名と呼ばれる勢力が現れてきます。
越前朝倉家も、応仁の乱の最中に分家して興った守護大名でした。

その後は「将軍=お飾り」という時代が続くのですが、13代将軍足利義輝の活躍によって、
一時的に幕府の権威が復活します。
しかし、義輝はなんと御所の襲撃を受けて討ち死にし、将軍不在となってしまいます。
もちろん、幕府の信用は完全に地に墜ちます。

このころ、後の15代将軍である足利義昭は、朝倉家を頼って来ていて、
義景に、共に戦おうとしきりに持ちかけます。
しかし、義景は都に上ろうとしなかったために、義昭はあきらめて去っていってしまいました。
その際、それまで義景の元にいた明智光秀までもが、義昭と共に去って行きました。

明智光秀といえば、信長を殺した残念な人というイメージがあるかもしれませんが、
実際は頭の切れる、かなり有能な武将でした。
信長の信用も厚く、京と安土を結ぶ重要拠点を任されたのが、光秀だったのです。

義景の元を去った足利義昭は、その後、光秀によって信長を紹介されました。
ですから信長は、将軍をバックにつけて京に乗り込むことができたのです。

義景があそこで決断していれば、最初に上洛した武将は朝倉家だったのかもしれないのです。

その後も、信長と対立した義景は、たびたび信長と対峙します。
信長軍は、朝倉に対しては決して無敵ではありませんでした。
実際、二度ほど信長は朝倉の前に敗走し、信長を討ち取るチャンスがあったのです。
しかしその度に、取り逃がしたり行動が遅かったり人任せだったりして失敗。
信長包囲網を考えていた武田信玄や足利義昭からは、
さんざん恨み言を書かれた手紙を送りつけられています。

あげく、姉川の戦いで敗れて拠点を取られた為に、
軍力はあっても戦術的に不利になっていきます。
そうしているうちに武田信玄が病死すると、信長は武田の心配が無くなったので、
全力で朝倉を攻めることができるようになります。
そして信長の猛攻の前に朝倉軍は壊滅し、義景とその血族は滅亡しました。

しかしその際、越前から逃げ出した朝倉の一族は、各地に散っていったとのことです。
落ち武者伝説と言えば平家のものが有名ですが、
朝倉の末裔伝説も、怪しいモノも含めて全国に相当数があるようです。
まあ、私の家に伝わる話も、そのうちの一つですけど。

私が聞いたところでは、ご先祖様は伊勢まで逃れたあと、海を渡って渥美半島に辿り着いて、
そこで百姓をやっていたということです。
そして江戸時代は、代々庄屋になったり没落したりを繰り返したそうです。
庄屋時代に掘った溜池の一つは、私の子供の頃まで残っていたとのことです。

そういう伝承ですので、子供の頃に親に「ウチの先祖ってどんな人?」と聞いたら、
「戦に負けて百姓をやってた」と言われた覚えがあります。
確かにそうなんですけどね。

しかし家系図があるわけではありませんので、あくまで「自称」です。
そもそも、越前朝倉氏の家紋は「三つ盛木瓜(みつもりもっこう)」ですが、
我が家の家紋は「丸に井桁(いげた)」です。
普通は同じ家系では同系列の家紋を使いますから、ちょっと怪しいです。
強いて言えば、輪郭は似ていますけど。


comeon.png


ただ、茨城に住むようになってから偶然知り合った同郷出身の人が、
「高校の同級生が同じような話をしてた」なんてことを言っていました。
ということは、末裔伝説は我が家以外でも伝わっているということで、
伝説の存在自体は本当のようです。

ちなみに、私の三代、四代前の位牌を見ると、
周囲の朝倉家の位牌が普通の井桁紋である中、我が家だけが
組井桁(井桁とは微妙に違う)となっています。
私が推測するに、ひいじいちゃんが位牌を作る際に、
「組井桁の方がかっこいいじゃん」という理由で
ウチだけデザインが変わったのではないか、と。

まあ、伝統なんて大抵がそんなもんですよ。

最初の話に戻りますと、戦国武将のご先祖様のもう一人は、
家康の忠臣、本多忠勝です。
その話は、またの機会にでも。

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