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2015.11.01  あすなろ130 元寇(過去記事)

2012.08号

まずは、この絵をご覧ください。

130-1.png

小学六年生以上ならば教科書で見たことがあると思います。
元寇の絵ですね。

鎌倉時代、大陸からモンゴル帝国(元)が攻めてきました。
およそ700年前のことです。
このモンゴル襲来のことを、教科書的には元寇(げんこう)と呼びます。

『日本はその頃、名乗りを上げて一騎打ちという戦法でしたが、
 モンゴルは集団戦法だったために、大変な苦戦をしました。
 しかし、モンゴル軍が船に引き返している夜、たまたま台風が来た為に
 モンゴル軍は全滅して、日本は勝つことができたのです』

......なあんて話を、聞いたことがあると思います。

もしかしたら、

『モンゴル軍の弓は強力で、日本の矢の二倍も飛んだため、
 歯が立ちませんでした』

なんて話を聞いた人もいるかもしれません。

さて、先ほどの絵ですが、あの場面の左右には、
本当はこんな様子が描かれています。

130-2.png

たいへんだー。
にほんまけちゃうー。

いっきうちではむりだー。

ん?
一騎打ち?

いや、日本軍は集団で攻めていますね。

で?
苦戦?

いや、絵を見る限りでは、モンゴル軍は逃げまどっていますが。

もう少し、詳しくあたってみましょうか。

この『蒙古襲来絵詞』というのはそもそも、竹崎季長(たけざきすえなが)という武士が、
自分の活躍から恩賞を貰うまでの話を描いた物です。
最初に挙げた有名な場面で、血を流した馬に騎乗しているのが、
まさにその竹崎さんです。
ですからこの場面は、本人を目立たせる為に、
わざと一騎だけ先頭に飛び出させて描いている可能性があります。

次に、よく言われる

「当時は『やあやあ我こそは』と名乗って戦うのが慣わしだったのだが、
 そんなことをしているうちに敵兵に討たれた」

ですが、これも怪しいです。

『八幡愚童訓』という書物には

 『日本の戦のように互いに名乗りあって、名を挙げて、
  一人だけの勝負と思っていたところ(朝倉による意訳)』

などというような箇所がありまして、これがその根拠となっているようです。

しかし、その原本と言われる、『八幡ノ蒙古記』では、

 『日本の軍のように互いに名乗りあって、名を挙げるのは、一命限りの勝負と思って』

となっていて、「一人の勝負」とは書いてありません。

さらに、竹崎さんの『蒙古襲来絵詞』の中には、

 『葦毛の馬に乗った武者が敵陣を破ってきたのが見えたので、
  「どなたでしょうか」
  と聞くと、
  「肥後国菊池次郎武房と申す者です。そういうあなたは」
  と聞けば、
  「同じ国の竹崎五郎兵衛季長と言います。見ていてください」
  と言って駆けていった(朝倉意訳)』

とあります。

つまり、日本人同士で互いに名乗りあっているのであって、
敵に向かって名乗りを上げているわけではないのです。

当時は、敵に突っ込む前に友軍に向かって名乗りを上げていました。
これは恩賞を貰う際に、互いに活躍をした証人になるためです。

『蒙古襲来絵詞』の他の場面でも、『互いに証人に立つ』という表記があります。

『八幡愚童訓』は、『八幡ノ蒙古記』を書き写すときに間違えた、と解釈すべきですね。

さらに『八幡ノ蒙古記』には、

 『ここで菊池次郎は、およそ百騎を二手に分けて、散々に駆け散らして勝負を決めた』

と、やはり武士が集団戦法をした記述があります。

ついでに。

竹崎さんの『蒙古襲来絵詞』にある、日本軍に立ち向かっている三人の蒙古兵は、
他の逃げまどっている蒙古兵と装備や絵のタッチが違います。
実はこの三人は、あとで書き加えられた絵だ、というのが現在の通説なのだそうです。
ダメじゃん教科書。

ただ、最初から最後まで勝ちっぱなしだったというわけではありません。
蒙古軍が対馬と壱岐に上陸した時には、
地元の武士では歯が立たたなかったために、
相当数の日本人が虐殺されました。
『一谷入道御書』には、『一人も助かる者なし』とあります。

しかし博多に上陸してからは、先に書いたように日本軍が強いために、
蒙古軍は進軍をあきらめて、夜のうちに撤退をしてしまいました。
翌朝、日本兵が見たのは、
置き去りにされた船の残骸と下っ端の兵隊達だった、という話でした。
敵は逃げ帰ったのです。

ここまでが一回目の話です。
風が吹いたなんて話は、どこにも書いてありません。

二回目に攻めてきた時は、日本側には防塁の石垣が造られていたので、
上陸をほぼ阻止しています。
しかも今度は、積極的に敵船に乗り込んでガンガン攻め立てています。

その最中、今度は本当に台風が来ました。
五日の間、海は荒れ続けます。
4000あった敵船は、船同士でぶつかりまくって、200にまで激減します。
ここで蒙古軍の将軍は、使える船に乗っている兵隊を押しのけて、
さっさと逃げていってしまったのでした。

日本勢は、その後の総攻撃によって勝利します。
確かに、台風によってラクできましたが、台風が来なくても勝っていたでしょうね。

蒙古軍の敗因として、
「高麗(朝鮮)は仕方なく協力していたので、船の作りが手抜きだった」
などと言い訳している本もありますが、
実は日本攻めに一番乗り気だったのは高麗王でした。
なのでこれもウソです。

あと、日本の弓は当時世界最大だった上に、弓も矢も作りが丁寧で凝っていて、
軽くて強力で命中率が高い、というものでした。

また例の「てつはう」は、重さが4キロ以上もあって、
敵陣に投げ込めるものではなかったようです。
音だけだったのでしょうね。

学塾ヴィッセンブルク 朝倉  


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