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2015.12.08  あすなろ121 縄文文化と稲作伝来(過去記事)

2011.11号

ご飯が好きだ。

炊きたてなら、ご飯をおかずにご飯が食べられるくらい好きだ。

私は、世界で一番味にうるさい民族が日本人だと思っています。そしてその味覚の元となっているのは、米食でしょう。

稲の原産は、中国大陸と言われています。以前は、インドから長江上流域が原産だと言われていたのですが、最近は、長江中流から下流域が発祥の地とされているみたいです。

日本に最初に稲が伝わったのは、縄文時代の終わり頃です。しかし、最初の頃に栽培していたのは、水田を使わないで畑に植える陸稲(りくとう)でした。

当時、すでに大陸では水田を使った稲の栽培が始まっていましたが、縄文人はこれをあえて選択しなかったようです。

水田による稲作は、田植えから水の管理までと、大変な手間がかかります。しかしその当時、日本は温暖で豊かでした。縄文人は、わざわざそんな手間暇をかけなくても、食料に困ってはいなかったのです。ただ、陸稲は栽培が簡単だったので、一応植えてはいたようです。

ところで、縄文人という名称から、どんな人たちをイメージするでしょうか。

私の場合は少し前まで、ウホウホ言っている未開人というイメージでした。歴史の教科書では、ネアンデルタール人とかなんとかの次に書かれてますから、しょうがないですよね。しかし実際には、それなりに高度な文明を持っていたようです。

青森県に、三内丸山遺跡という、縄文時代の集落跡があります。中学一年で習うと思いますが、教科書にはどのくらい詳しく載っているのでしょうか。

実はこれ、遺跡の存在自体は江戸時代から知られていたようですが、本格的な発掘は、一九九二年に始まっています。というわけで、私の時代には、この遺跡については習わなかったのです。

当時は遺跡といえば、弥生時代の登呂遺跡くらいしか載っていませんでした。縄文時代のものといえば、せいぜい貝塚程度しか見つかっていなかったはずです。ですから、最近この遺跡の詳細を知って、ちょっとびっくりしているところです。

縄文時代と一口に言ってしまっても、その期間は相当広いです。数字で言うと、一六五〇〇年前(紀元前一四五世紀)から、三〇〇〇年前(紀元前一〇世紀)となります。

縄文時代の前は旧石器時代、後は弥生時代です。その境界は、土器と竪穴式住居が登場してから、水田における稲作が始まるまで、とされています。

三内丸山遺跡は、五五〇〇年前から四〇〇〇年前となっていますので、縄文時代の中では後半で、末期とまではいかない時代です。

縄文時代のことですから、麦や稲の栽培はもちろん始まっていません。しかしこの遺跡の周辺では、どうやら栗の木が栽培されていたらしいのです。さらに、マメ、ゴボウ、ヒョウタンなどの栽培植物が出土するところから、一年草も育てていた可能性もあるようです。食用の一年草とはつまり、今でいうところの野菜ですね。

また、この「村」には、数百人が暮らしていたということになっています。田舎の子供会の区域よりも大規模ですね。

でもそれよりも凄いのは、測量技術です。

ここで見つかった「六本柱建物跡」は、六ヶ所の柱の穴の間隔が全て四.二メートル、幅と深さはは全て二メートルで統一されているそうです。もちろん、穴は長方形に並んでいます。つまり、長さを統一することに加えて、少なくとも直角を作る方法があったということになります。

ところで、他地域では、三五センチという長さを基準にした遺跡があるということです。で、先に挙げた四.二メートルという長さは、三五センチのちょうど一二倍です。もしかしたら、この時代独自の統一基準でもあったのかもしれない、と言われています。

というわけで、日本にもそれなりに「古代文明」があった可能性が高いのです。また、日本列島を通じて同じような土器や石器が発掘されていますので、南北の交流もそこそこあったようです。

そうやって繁栄した縄文文化も、ある時から終焉に向かいます。それは、地球の寒冷化によるものです。

縄文時代の中期は、現在よりも温暖な時代でした。しかし、約五〇〇〇年前から徐々に下がってきた気温は、三〇〇〇年前には東日本から栗の木を消し去り、漁業に壊滅的な打撃を与えるほどになります。

最盛期には全国で一六万ほどもいた縄文人は、この寒冷化によって半分以下にまで減ってしまいます。特に東日本では、人口減が大きかったようです。

一方、西日本では、寒冷化の影響をさほど受けませんでした。しかしこのころ、西日本の人口は、急激に増加しています。つまり、東日本の縄文人が、西日本に移動してきた、というわけです。

同じ頃、お隣の大陸でも北方の民族が南下してきて、南方の民族をおびやかし始めていました。そして南の人たちの一部が、稲作の技術を持って日本に避難してきました。大陸と日本では、以前から文化交流があったので、日本にたどり着いたのは偶然ではなく、はっきりと目指してきたことでしょう。

東からの人の流入で人口密度が高まって、食料増産が急務となった縄文人に、この水稲栽培の技術は渡りに船だったことでしょう。こうして日本でも本格的な稲作が始まり、弥生時代へと入っていくことになります。

一方で、西日本の人口急増は、大陸人が大量に流入したせいではないか、稲作も、縄文人をよそに大陸人だけで作った集落で始められたのではないか、という考えもあります。しかし、水田跡から出土される道具類は、農耕機具は大陸式でも、生活用品は縄文式なのです。そこから、水田を作ったのは縄文人なのだろう、と考えられているようです。

さらに、縄文人が大陸に「留学」して、技術を持ち帰ってきた、という説もあります。

ところで、朝鮮半島最古の水田跡も、日本とちょうど同じ時代のものです。これと現存する稲の遺伝子から、水田は縄文人が大陸から学んで、それを朝鮮半島に伝えた、という説まであります。これが真実なら、それこそ歴史の教科書が変わります。この説は、NHKでも紹介されて話題になりました。

ただこの根拠となる稲の遺伝子情報は、調査が不完全だと思っていますので、今後の続報が待たれるところです。

学塾ヴィッセンブルク 朝倉  



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