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2016.01.04  あすなろ57 茶の歴史(過去記事)

2006.07号

ご存じとは思いますが、少し前から、塾に日本茶を導入しました。塾生からの要望に添ってみたものです。思ったよりもまあまあの味がでるようで、ちょっと安心しているところです。

私はどうも、「インスタントの緑茶」=「入院中に飲むもの」というイメージが強く、買ってもたいして旨くないだろうと思って、二の足を踏んでいたところがあります。安物を飲ませてもいいものだろうか、というような考えもありました。

しかし考えてみれば、紅茶だって同じ事ですよね。現在塾に置いてある紅茶は、三角バッグのちょっと高めのものではあるのですが、それでも味や香りは、ちゃんとした茶葉からいれるものにはかないません。日本茶も同じく、インスタントであるという割り切りは、ある程度必要だと思うことにしました。

日本茶の歴史は千年以上。インスタントなどですぐに再現できる物ではない、ということにしておきましょうか。

茶のルーツは、もちろん中国大陸です。中国で茶を飲む習慣が生まれたのは、西暦350年頃で、南部の雲南省のあたりから全土に広まったとされています。

ただし、中国の神話によれば、茶を発見したのは農耕の神様で、紀元前2780年のことだとか。ということは、約4800年前です。さすが中国、数字がおかしいです。でも日本だって、今年は皇紀2666年ということになっているわけですから、あまり人のことは云えないんですけどね。

日本においては、奈良時代の729年、聖武天皇が行茶の儀を行ったという記録が最古のようです。当時はまだ中国からの輸入品でしたが、平安時代に中国へ渡った僧が茶の苗木(種?)を持ち帰ったことにより、日本国内でも栽培が始まったそうです。

そして室町時代には「きき茶(闘茶)」も流行するほど普遍的な物となり、戦国時代には、大名の間でたしなみとしての茶の湯が広まりました。当時戦国大名が築城した天守閣には、必ずといっていいほど茶室があります。1587年には、秀吉による有名な北野大茶会が開催されています。江戸時代には煎茶が始まり、また新しい風流が生まれるのです。

一方、ヨーロッパの方はといいますと、最初に西洋人が茶を知ったのが1516年、各国の宮廷に喫茶の習慣が流行するのは1600年代になってからです。

最初はどうやら「東洋ブーム」の一端として、単なる物珍しさから入っていったようです。中でも、日本を訪れたヨーロッパの宣教師によって、茶が単なる飲料ではなく、一つの文化であることが伝わりました。云うまでもなく、茶の湯のことです。

当時のヨーロッパはまだ手づかみで食事をし、テーブルクロスで口をぬぐっている時代でした。ですから、庶民までもが箸で物を食べているだけでも衝撃的だったでしょう。その上、貴族でもない大名が、ただ飲料を飲むだけのために、城(=軍事基地)の中に専用の茶器と茶室をあつらえるということは、西洋では到底考えられない、神秘的なことだったろうと思われます。

ヨーロッパに当初伝わったのは、主に緑茶でした。私も最近になって知ったのですが、今も昔も、中国においては、主に飲まれているのは緑茶なのです。また、初めの頃は日本からも輸出されていたようですが、鎖国によって取引が大幅に減少し、その後は中国からの輸入に頼るようになりました。

まずはポルトガルとオランダの宮廷で広まった喫茶ですが、ポルトガル王女のキャサリンがイギリス王家に嫁ぐと、イギリスの宮廷にも喫茶習慣が広まり始めます。そのうちにイギリス自身も中国と直接取引をするようになり、さらに輸入量を増やすことになります。また、紅茶と砂糖を合わせて飲むことを「発明」したのもこのころです。

このころのイギリスといえば、なんといっても産業革命です。町には工場が造られ、労働者が一斉に働くことになりました。そしてその昼食の際に、スープやポタージュよりは簡単に用意できるミルクティーは、ジャムパンと合わせて簡易食としてもてはやされました。これは同時に、「清涼飲料水としてのワインやビール」から、労働者を遠ざける効果も狙ったようです。

実はコーヒーも同時期にヨーロッパに伝わっていたのですが、イギリスはコーヒー産地への渡航競争に破れたため、イギリスにおいては紅茶ほど安価な飲み物とならずに終わってしまいます。

当時の植民地である北米大陸にも、喫茶習慣は広まっていました。しかし、イギリス本国が財政危機対策として、植民地向けの茶に対して重税をかけ始めます。植民地側の住民は本国に憤慨し、アメリカの暴徒が停泊中のイギリス船から、積み荷の茶を海に投げ捨てる事件(ボストン茶会事件)が起こります。ボストン港の海は、紅茶色に染まったと云われています。

これをきっかけにしてアメリカとイギリスの対立が深まり、ついには独立戦争へとつながるのです。また、紅茶に反発し、不買運動に走ったアメリカ市民は、これに替わって紅茶のように薄いコーヒーを飲むようになりました。これが、いわゆるアメリカンコーヒーです。

さて、その後もますます紅茶の消費量は増えていきます。そのころ、イギリス人によってアッサムという新種の茶樹が発見されたのですが、本格的な生産はまだ始まっておらず、基本的に中国産に頼っていました。イギリスは、大量の銀を中国に支払い続けます。中国にとって魅力的な商品は、当時のヨーロッパにはほとんど無かったため、イギリスの対中貿易は赤字が増える一方でした。

そこで、イギリスは当時イギリス領だったインドで麻薬(アヘン)を作り、中国に密輸を始めます。中国に大量のスパイを送り込み、アヘンを大流行させたのです。もともと中国国内ではアヘンは違法でしたので、見かねた中国当局が取り締まりを強化し、没収したアヘンを消却したり廃棄したりしました。

それに対し、「権利」を振りかざすイギリスは、中国に戦争をしかけます。これがアヘン戦争です。武力で中国を屈服させたイギリスは、香港を奪い取り、中国からの茶を自由に買い入れる権利を得ます。十九世紀半ばのことでした。

同時にその頃から、アフタヌーンティの習慣が起こり、イギリスにおける茶流通が加速していきます。そして十九世紀末には、インドでの大量生産が確立し、イギリスは本格的な紅茶の国になるのでした。

日本茶の歴史はまたそのうちにでも。

学塾ヴィッセンブルク 朝倉  



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