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2016.02.01  あすなろ171 忠臣蔵

2016.01号

こんにちは。久々にウソを教えてしまいましたので弁解でございます。

先日、5年生に幕末のあたりを教えていたときのことです。(四谷大塚のカリキュラムでは、5年生の後半で歴史を学びます)

桜田門外の変が登場したとき、「これは年末によくやっている忠臣蔵なんだけど、忠臣蔵知ってる?」と聞いてみても反応が薄いので、まあここに書いてみようかなんて調べ始めたわけですよ。でもアレ? ナンカチガウ。

なんと、「桜田門外の変」と「忠臣蔵」は、全く別のお話でした。

「なんと」じゃねえだろそりゃそうだろと思うかもしれません。ですよねー。でもなんだか、私の中では見事に混ざっておりました。

いや、両方ともちゃんと知っていたんですよ。浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)も吉良上野介(きらこうずけのすけ)も大石内蔵助(おおいしくらのすけ)も松の廊下も赤穂浪士(あこうろうし)も、また、井伊直弼(いいなおすけ)も徳川斉昭(とくがわなりあき)も彦根城も安政の大獄も水戸藩士も、全部スラスラ出てくるのに混ざっていたのですからもうダメかもしらんな俺。

ただ二つとも、「雪の降る早朝、江戸の武家屋敷町で逆ギレ浪人集団が起こした暗殺事件」という共通のクライマックスを持っているので、すっかり混ざってしまったわけです。どうもすみません。

もう少し言い訳をさせていただけるのなら、共に「殺されたのは幕府の上役で、殺したのはその人と対立した殿様の元部下」「殺された方は悪者扱いされていたが本当は悪者じゃなかった説を多く見かける」という点でも似ています。似てるでしょ?でしょ?

それぞれ、ちゃんとご説明いたします。まずは、忠臣蔵の方です。

こちらは、おおざっぱには

1.        江戸城にて、赤穂城主の浅野内匠頭長矩(ながのり)が、江戸城内の松の廊下にて、吉良上野介義央(よしなか)に突然斬りかかる。

2.        その罰として、浅野長矩は即日切腹。浅野家はお家取り潰し(=大名として終了・城は別の大名家に明け渡し)。吉良はお咎(とが)めなし。

3.        一年九ヶ月後の十二月十四日未明、浅野家の元部下である大石内蔵助を筆頭とした赤穂四十七士が、吉良の屋敷を襲撃して吉良義央を殺害。

といった流れのお話です。

時は元禄、五代目将軍徳川綱吉の頃の話です。習った人は知っていると思いますが、元禄文化の元禄です。江戸時代の前半頃ですね。

先に挙げたあらすじは、一応、確かな事実だけを並べたものです。しかしいわゆる「忠臣蔵」は、厳密には「事件を元にしたフィクション」のことです。

赤穂浪士による屋敷の襲撃自体はありました。江戸を揺るがす大事件でした。そしてその後、この事件を題材とした歌舞伎や人形浄瑠璃がたくさん作られました。今でいうところの「映画化決定!」ですね。

て、その映画......じゃなくて歌舞伎用の原作を作る際に、どうやら脚本家がオリジナルアレンジを色々と入れたようなのです。

この話のクライマックスは、赤穂浪士による吉良屋敷討ち入りです。それを盛り上げるためには、襲撃した赤穂浪士の正当性とが必要です。そのためには、その発端となった浅野長矩の刃傷沙汰にも理由が必要です。

その結果、「忠臣蔵」という話の世界では、「江戸城にて、若い浅野は指南役の吉良に対する賄賂が足りなかったために嘘を教えられたり必要な事を教えてもらえなかったりした」ため、松の廊下で浅野とすれちがった時に「いよいよ浅野は堪忍の緒が切れて」斬りかかるに至ったとなっています。赤穂浪士は、「そんな主人の無念を果たすために、仇討ちを決行した」というわけです。

吉良家は高家(こうけ)と言って、幕府の儀式などの取り仕切りができる数少ない名門でした。そしてこの年は、江戸城が朝廷からの勅使を迎えるイベントを取り仕切る代表として勤務していました。その吉良の補佐役として働いていたのが浅野でした。

浅野がキレたのは、そんなイベントの最終日です。接待係が刃物を振り回しちゃったものですから、朝廷に威信を見せつけるつもりの幕府は面目丸つぶれです。即日切腹とお家取り潰しは、やむを得ない措置といえます。

しかし浅野を打ち首(罪人扱い)にしないで切腹(武士扱い)としたのは、その厳しい判決に対する温情とも解釈できます。

さて、「賄賂」の件ですが。

挨拶代わりの「心付け」は、当時は普通に行われていました。それが賄賂と呼ばれるレベルになっていた可能性も充分にあります。しかし、吉良家は浅野家に対して石高はずっと少ないので、要は金持ち相手の指南役で飯食ってるような立場です。指南役は他にもいますので、評判が下がったらクビの可能性もある中、そこまで浅野に対して横柄な態度を取れるものなのか、という疑問が残ります。

さらに実は、この二人のペアによる接待は、これが二度目のことでした。すでに一度、同じ役をそつなくこなしていますので、少なくとも一度は必要なことを教わっているわけです。さらにさらに、そもそも今回の準備期間は、吉良は京に出張に行っていて、江戸の浅野はほぼ一人で準備をしているのです。浅野は吉良に斬りかかるときに「この間の遺恨覚えたるか」と叫んだそうですが、この間? 一人で準備させられた恨みとか?

一方、吉良は浅野に対して刀に手をかけなかったために、一方的な被害者としてお咎めなしでした。喧嘩両成敗が普通だった世での二人の処分のギャップは江戸でも話題になって、その後の赤穂浪士の逆襲劇も、いつか起こるだろうと噂されていたようです。しかも吉良は武士としては最悪の弱虫扱いです。

最近は、「浅野は元々キレやすい性格だった」「吉良は地元では名君だった」という方向での検証をよく見かけます。しかし吉良の名君説も、吉良の地元が不名誉を被りたくないために話を盛った可能性もあります。

また、主君の仇討ちとして討ち入りした赤穂浪士も、本当は、取り潰しなって無職になった逆恨みの可能性もゼロではありません。

しかし今回の実行犯である赤穂浪士達は、浅野長矩同様、武士としての切腹を命ぜられました。また、討ち入り後は吉良義央の罪が再検証されて、最終的に吉良家は断絶に至ります。幕府としては、このあたりが騒ぎを収める「落としどころ」だったのでしょうね。

桜田門外の変の話は、次回に回すことにします。紙面が尽きてしまいました。

学塾ヴィッセンブルク 朝倉  



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