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2016.03.02  あすなろ172 桜田門外の変

2016.02号

前回の忠臣蔵に引き続き、今回は桜田門外の変です。言い訳第二号です。

もう一つの雪の朝の事件、桜田門外の変は、幕末の頃に起こった事件でした。

忠臣蔵で殺された吉良が旗本だったのに対して、桜田門外で殺害された井伊直弼は、江戸幕府の大老でした。大老とは、時の幕府の最高権力者で、言ってみれば首相のようなものですので、首相暗殺レベルの事件です。

この事件は、歴史の教科書的には、「井伊直弼はアメリカとの日米修好通商条約を独断で結んで、それに反対する吉田松陰らを安政の大獄で処罰した。そこで反感を買って殺された」というようなことになっています。

でも、もう少し詳しく見ていきます。本当は、もっと複雑で根が深い話です。

最初のきっかけは、ペリーの一回目の来航でした。この時の将軍は第十二代家慶(いえのぶ)だったのですが、ペリー来航時には、もうさっさと跡継ぎを決めないとやばい状態だったのです。しかし、問題がありました。

次期将軍候補である家定(いえさだ)は、よく言えば病弱、悪く言えば役に立つ見込みがない人物だったのです。脳性麻痺だったとも言われていまして、会話はできたようですが、後には廃人同様だったこともあったようですから、確かに将軍が務まるような人物ではなかったようです。

ともかく、来年にはペリーに何らかの返事をしなければいけないという局面で、家定に任せるわけにはいかないと主張する人物が現れました。水戸藩の徳川斉昭(なりあき)です。

彼の一推しは、一橋家に養子に出した慶喜(よしのぶ)です。後の十五代将軍ですね。

確かに慶喜は、優秀なことで有名だったようです。しかし斉昭は、老中の阿部正弘に「次には慶喜にするから」と説得されて、引き下がります。そして、家定が第十三代将軍に就くこととなりました。

家定は先述の通りの人物でしたので、跡継ぎの男子を儲けることは無理だということが明らかでした。そこで、徳川斉昭を中心に、今度こそ慶喜にしなければという運動がおこります。今回は、先述の老中阿部正弘も賛同しています。しかし、本来の後継者順では、次は家茂(いえもち)のはずでした。

跡継ぎ争いによる騒乱は、日本史上で何度も起こっています。古くは飛鳥時代の壬申の乱が、その後も平安時代の保元の乱、室町時代の応仁の乱と、その度に内戦が起こり、政治が大混乱を来(きた)しています。

しかし徳川家康が、ここで一つの規則を定めます。それが、長子相続というものです。現在の天皇家の即位順と同じものですので至極当たり前のようですが、戦国時代までは、家督を継ぐのは長子とは限りませんでした。戦国武将を調べるとわかります。

家康は三代将軍を定める際に、もっと優秀とされていた人物を差し置いて、家光を指名します。この前例があったからこそ、その後何百年も、江戸では後継者争いが起こらなかったのです。しかし今回の徳川斉昭による慶喜推しは、これに反するものでした。

しかしここで、この派閥を支えていた老中阿部正弘が急死します。すると、反斉昭派が巻き返しを図ります。さらにこのころ、ハリスが日米修好通商条約の締結を迫っていて、将軍家定の病状はいよいよ重体となるし、開国か攘夷か、跡継ぎは誰がいいのか、大奥まで巻き込んで、城内は大混乱となります。

そんな時、それをまとめる大老として指名されたのが、井伊直弼でした。彼は、就任二ヶ月後には後継を家茂と定めます。

実を言うと、直弼自身は井伊家の十四男で、父親が亡くなってから自分に家督が回ってくるまで、十五年間を自宅の離れで耐えています。そんな直弼ですから、後継の順序に厳しいのは、ある意味当然だったともいえます。

また、家定自身も、どうも慶喜には将軍を譲りたくなかったようです。イケメンでモテモテなのが気にくわないとか。いやマジで。

ともかく、残るはアメリカとの条約です。

直弼は、各大名に意見を聞いて回った結果、開国することはやむを得ないが、天皇の勅許(ちょっきょ)を取る必要がある、という結論に達しました。天皇云々は、反対派を納得させるためのものでしょうね。だって別に、鎖国の時は天皇の許可なんて取ってないし、幕府は朝廷を実効支配していて、朝廷は幕府に逆らえない状態だったわけですから。

それでも一応は筋を通すために朝廷に行くのですが、天皇は勅許を出さずに「衆議を尽くした上で再度奏聞(そうもん)せよ」なんて言います。要は、もっと話し合ってからもう一回来いというわけです。

しかし条約交渉の担当者は、直弼に「どうしてもの時は、結んじゃってもいいよねいいよね」というので、直弼が「その時は仕方ないけど、でもできる限り粘れよ」と答えると、担当者はその日のうちにさっさと条約に調印してしまいます。ひどいお役所仕事です。

直弼からしてみれば望まぬ結果となってしまったのですが、それでも上司の責任です。現在の歴史の教科書では、直弼が反対派を無視して条約を結んだことになっています。

さて、反対派の斉昭はといえば、跡継ぎ問題で二連敗したあと、条約問題でも言い分は通らず、しかも直弼の奴は天皇の勅許ナシでやりやがったときて、もう怒り心頭で江戸城に怒鳴り込みに行きます。しかし、定められた登城日ではなかったのに勝手に来たということで、逆に謹慎を食らってしまいます。

すると今度は、それに抗議する島津藩は兵を引き連れて江戸に向かおうとします。これは藩主が急死したので中止されましたが、水戸藩は水戸藩で、幕府を通さずに裏ルートで朝廷にチクりに行きます。

以上の行為は、幕府に対する裏切り行為で、反乱の一歩手前です。そこで幕府は、そういう勢力を次々と捕らえて、死罪、強制隠居、謹慎などの処分を与えていきました。

これが安政の大獄です。

安政の大獄といえば、教科書的には吉田松陰の死刑ですが、ここにも誤解があります。

鎖国のルールとして、日本人の海外渡航禁止があります。しかし松陰はこれを破ってペリーの船でアメリカに行こうとしたことと、さらに老中暗殺計画なんてのをベラベラとしゃべったので死刑になったのです。直弼とかそんなのは関係なく、そりゃ死刑でしょ。

ともかく、このように直弼によってギッチギチに追い詰められた水戸藩は、ついに逆ギレをおこします。雪の早朝、江戸城の桜田門の前で、登城中の井伊直弼は水戸藩士に襲われて殺害されました。桜田門外の変です。

結局、悪いのは誰だったのでしょうか。

学塾ヴィッセンブルク 朝倉  



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