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2016.04.01  あすなろ126 朝鮮出兵(過去記事)

2012.04号

前回に引き続き、ウチの三歳児の本「ビジュアル版戦国武将大百科」からのネタです。

「合戦編」に、豊臣秀吉の朝鮮出兵についての記述がありました。秀吉の朝鮮出兵は、二回ありまして、一回目は文禄の役、二回目は慶長の役と呼ばれています。

で、その本によると、まず文禄の役は、

「当初、朝鮮側は戦の準備ができておらず、」

慶長の役では、

「文禄の役では平壌にまで進出した日本軍が、慶長の役では漢城の手前で足止めされてしまったのだ」

と書いてあるわけですが、んーと、残念ながら、ちょっと違うんですよねー。

子供向けの本にいちいち目くじらを立てるのもどうかしているとは思いますが、これでは日本軍の負け戦みたいで大変不本意ですので、あえてこの場をお借りしたつっこみを入れてみようと思います。

朝鮮に進軍する前に、秀吉は何度も服属せよとの警告を発していました。その後、拒絶する様子を見て、進撃拠点となる名護屋城を建造しています。そしてそれを見ていた朝鮮側も、北方に配備していた軍を日本側に配備して、水軍も半島南端に集めています。さらに、宗主国の明に対して「沿岸守将に対して厳重警戒を下命しました。日本から侵犯を受ければ撃滅いたします」という使節を送っています。つまり、戦の準備は十分にできていたのです。

しかし朝鮮軍は、日本軍が上陸してからは連戦連敗で、敗走を続けるのみでした。その理由としては、

・歴史的に朝鮮は、歴代の中国王朝の属国となることで生き延びてきたために、大きな対外戦争が長い間起こっていなかった

・文化的にも「体を動かすのは身分の低い者のすること」という考えがあるので、役人は兵を蔑み、軍の訓練をするにも指導者がいなかった

・前項と同じ理由により、職人が育たなかったので工業が全く発達せず、あらゆる武器の性能が非常に低く、鉄砲もろくに持っていなかった

という朝鮮に、

・日本では職人技をもつ技術者が多かった

・そのために鉄砲の命中精度および威力はオリジナルのポルトガル製を超えていて、さらに大量生産によって、当時は世界一の鉄砲保有国だった

・同じ理由により、日本刀も世界の他地域の剣に比べて抜群に高性能で、輸出されるほどだった

・日本は長く戦国時代であったために、兵は実戦で鍛え上げられた者ばかりの上、高度な戦術も数多く持っていた

・遠征隊の一部兵士にとっては、元寇の際に朝鮮人が対馬で行った虐殺の恨みを晴らす、という意味合いもあった

というような軍が大量に攻め込んで行くわけですから、そりゃ勝ちますわな。

釜山に上陸した日本軍は朝鮮軍の城を次々と陥落させて、文字通り破竹の勢いで北上して行き、上陸からたった二十日余りで、首都である漢城をあっさりと陥落させます。

ちなみに、上陸地点の釜山から漢城までは、およそ五〇〇キロ。江戸時代、東海道五十三次の五〇〇キロは、通常一五日ほどで旅をしたと言われています。さらに、江戸時代に朝鮮半島に旅をした西洋人の記録によれば、朝鮮半島はどこも山がちで、ろくな道がないとされています。そこを鎧と武器でフル装備した兵士が進んだことを考えると、朝鮮軍の抵抗はほとんど無いようなものだったと考えてもいいでしょう。

漢城にいた朝鮮王は、近づいてくる日本軍の報を受けて、さっさと逃亡してしまいます。その家臣は、王宮の家畜を盗んで王よりも先に逃亡しています。そしてそれを見た住民が王宮に対して放火と略奪をした為に、日本軍が到着したころには廃墟があるだけでした。

なお、朝鮮の被支配層はそれまで、働くことがバカバカしくなる程の搾取を受けていたのですが、秀吉は軍に対して「占領地における放火の禁止、民衆の殺戮や捕獲の禁止、飢餓に陥った民衆を救済すべきこと」などを命じています。ですから日本軍は、朝鮮住民にとって解放軍に見えたようです。漢城に到達する頃には、軍の半分くらいが朝鮮の民衆だったという記録も残っています。

日本軍はさらに北進、平壌まで到達しました。ここで和平を呼びかけますが、朝鮮軍が応じないために、平壌を陥落。明へ逃げ延びた王の依頼を受けて明軍が到着しますが、一度は日本軍が撃退します。

しかし明軍が城の食料庫に火を放ったために、日本軍は漢城まで退却します。その漢城付近の食糧倉庫も焼かれてしまったので、日本軍は明軍と和平交渉を始め、釜山まで引き上げました。ただし、平壌から漢城へ戻る会戦では、日本軍は明軍に大勝しています。

文禄の役が失敗したのは、食料などが奥地まで十分に運べなかったのが主要因でした。陸路は道が悪く、海路も船が小さかった為に、朝鮮水軍の妨害を突破できませんでした。

そこで、続く慶長の役では、大型船を用意して朝鮮水軍をほぼ壊滅させています。よく聞く「李舜臣将軍」はこれ以降、日本水軍にろくに手を出せなくなります。また、南部に留まり、「ヒットアンドアウェイ」で敵軍の消耗をさせて、その後一気に進攻するという作戦に変えたようです。

この方針は、秀吉が出した命令書からも見ることができます。つまり日本軍は「足止め」されたわけではなくて、敢えて進まなかったのです。敵軍の将が、日本軍の追撃が無いことを罠ではないかと疑ったという記録も残っています。その後も日本軍は、攻めて引き上げ、攻められて撃退、を繰り返します。

ただ一度だけ、建築中で食料を運び込む前の城を攻められたときに、食糧難で危なかったことがありました。しかし援軍の到着によって撃退に成功。さらに追撃によって数多くの敵兵を討ち取り、最終的には日本軍の損害が一一〇〇人に対して、明・朝鮮軍の損害は二〇〇〇〇人という圧勝でした。

その後の会戦でも、日本軍一三〇〇〇人対敵軍五五〇〇〇人の戦いにおける日本の損害がほとんど無し、とか、島津隊七〇〇〇人が三〇〇〇〇人の敵兵を討ち取る、とか、ほぼ無敵状態でした。最後は明軍は、遠巻きに眺めるしかなかったと書かれています。

その後、秀吉の死去によって日本軍は撤退するのですが、それでも豊臣家にはまだ十分な資金が残っていました。最強ですね。

一方、明は、朝鮮派兵による消耗によって、滅亡への道を辿ることとなるのでした。

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