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2016.04.24  あすなろ96 鳥居強右衛門(過去記事)

2009.10号

今回は、「日本史を学年一番取った生徒が出た記念」です。

「郷土の有名人」というのがあります。その地域出身で活躍している人物、もしくは歴史上活躍した人物のことです。

こういうものは、主に小中学校の頃に習うなどして知ることになりますので、私のような他から来た人間にとっては、ここに来るまであまり知らなかったような人物も多いことと思います。よく見かける「長塚節」も、最初見たときは、「ながつかぶし」という民謡か何かだと思っていました。

逆に、私の地元では知られていても、関東では無名の人ももちろんいるわけです。そんな一人を、今回は紹介します。

私の育った愛知県豊川市には、赤塚山(あかつかやま)という一〇分で登れるような小さな山があります。ここに、鳥居強右衛門之墓という大きい碑が建っています。ここに祀られる鳥居強右衛門(とりい・すねえもん)は、戦国時代の足軽と伝えられています。

その頃、徳川家康は、当時急成長していた織田信長を味方につけることで、まずまずの安定を保っていたのですが、一つだけ気になる方面がありました。信濃まで勢力を伸ばした甲斐武田氏、武田信玄の勢力です。そして、その最前線が、奥三河の長篠城でした。

長篠城の城主、奥平氏は、徳川寄りだったころに武田の侵攻を受けて、武田に寝返っていました。しかし信玄が死んだことで、家康から娘を嫁がせるとの提案を受け、また徳川に寝返ります。

一方、武田にとっては、最前線が敵陣になってしまったわけですから、当然取り返しに来ます。信玄の息子である武田勝頼は、長篠に侵攻してこれを包囲しました。長篠城は当初、徹底籠城の構えでした。しかし、敵の攻撃により兵糧庫を消失してしまい、いきなり落城寸前に陥ります。

もちろん、ここで援軍を要請したいところなのですが、完全包囲されている以上、それも容易ではありません。そんな時、その使者として選ばれた(志願した?)のが、鳥居強右衛門でした。

長篠城は、二つの川が合流する間に建てられていました。そこで、川を潜って脱出するために、泳ぎの達者な強右衛門が選ばれたのですが、川の中には、武田軍が仕掛けた鳴子があって、何かが引っかかると音がなるようにしてありました。

強右衛門は、まず川に流木を流しました。最初は音が鳴るたびに様子を見に行った武田軍も、そのうちに「また流木か」と警戒を解いたその隙に、強右衛門は川に潜り、下流まで抜けたといいます。

強右衛門は、包囲網を無事抜けたとして、城から見える山で狼煙(のろし)を上げることで無事を知らせ、すぐに岡崎城へと向かいました。

一方、岡崎の家康も、武田の動きは察知していました。勝頼は当初、長篠城と同時に、もっと南の城も攻撃していたからです。しかし、その軍勢の大きさから、家康単独でこれに対峙するのは無理だと判断し、信長軍の到着を待っていたのです。

強右衛門は、長篠城を出た翌日、早くも岡崎城に到着しました。距離にして五十キロほどあり、その大半が山道ですから、下妻からなら、筑波山を抜けて水戸まで走って行くようなものでしょうか。

強右衛門が岡崎に着いたときは、信長が自ら率いる織田軍が、岡崎でまさに軍備を整えている最中でした。強右衛門は城内の状況を、知らせると、すぐに長篠城へとって返します。

周囲の兵は、ここまで走ってきた強右衛門に「あとは休め」と言うのですが、強右衛門は「援軍が来ることを、仲間に一刻も早く報せたい」として、また一人、長篠まで走っていってしまいました。

途中、また狼煙を上げて、城へ報告をしつつ長篠へと向かう強右衛門でしたが、さすがに城内の異変に気づいた武田軍は、警戒を強化していました。強右衛門が再び城内へと戻るのは容易ではなく、結局、武田に捕らえられてしまいます。

武田軍は強右衛門から、信長の援軍が来ると聞いて、大変驚きます。よりによって信長が来ると、長篠を落とすのは大変困難です。すぐにでも長篠は落としておかなければなりません。そこで、一計を案じることになりました。

長篠は、援軍を心の支えとして待っていることでしょう。しかしここで、援軍が来ないとすると、士気は大幅に下がり、すぐにでも降伏するかも知れません。逆に、援軍が向かっていることを知れば、さらに抵抗は激しくなってしまいます。

武田軍は捕らえた強右衛門に、一つの提案をします。長篠城に向かって、「援軍は来ない」と叫べば、お前の命は助けてやろう、仲間の命も助けてやろう、というものでした。

強右衛門は、その取引を承諾します。

強右衛門は、長篠城の対岸に引っ立てられ、城に向かって立ちます。両軍の将兵が見守る中、強右衛門は叫びました。

「援軍はすぐに来る!皆、もう少しだ!」

強右衛門はその場で磔にされ、仲間の目前で殺されたといいます。

しかし、それまでは降伏も考えていた長篠城内は、その声を聞いて大いに盛り上がり、士気をあげ、織田・徳川連合軍が来るまで、持ちこたえることができたのでした。

そしてその後は、歴史の教科書にも必ず登場する、いわゆる長篠の戦いです。鉄砲隊が騎馬隊を打ち破ったアレです。

ちなみに鉄砲隊が武田を迎え撃ったのは、長篠城からは数百メートル(ぐらいだったかな?)離れた場所です。有名な屏風絵では、鉄砲隊が構える前に流れる川がありますが、これは先に強右衛門が潜った川とは別です。こちらは実物を見てみると、ほんの小川です。

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と、ここまでの話は、地元では有名な伝承ですので、私も、ほとんどそらで語れます。今回は、一応WEBにて調べてみたのですが、私にとって新しい情報は特になく、時代背景を確認したに過ぎませんでした。

こういう地元話は、一つは覚えておいた方がいいですよ。何かと。

学塾ヴィッセンブルク 朝倉  



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