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2016.10.10  あすなろ63 アムンゼンとスコット(過去記事)

2007.01号

興味の対象というものは、人によって本当に違うものですね。それに伴って知識の偏りというものも、相当の個人差が生じるものだと感じることが、何度もあります。

その領域も、人物でいうと、私の場合は「探検家」に詳しい方になるのでしょうか。

コロンブスやマゼランから始まって、アジア探検のスウェン=ヘディン。アフリカ探検のリビングストンやスタンレー。オセアニアからポリネシアを探索したクック。果ては「地球は青かった」ユーリ=ガガーリンや「この一歩は小さな一歩だが」ニール=アームストロング船長......

このあたりの人物名は一般常識だと思っていたのですが、どうやら違うようだと、最近になってようやく気づいてきました。

しかしここは敢えて、それを承知で。

どうも皆さんあまり知らないようなのですが、個人的には是非知っていて欲しいと思っている話を、ここで紹介します。

アムンゼンとスコット、白瀬の、南極探検の話です。

「初踏破」「初渡航」というものは、国同士などで競い合うことがよくあります。近年では1960年代に、アメリカとソ連が宇宙開発競争をしていたこともありました。ソ連が有人飛行をすればアメリカが月到達の計画を発表し、国の威信を賭けて成功させました。

しかし、いくら競争といっても、これは年単位のものです。同じ日にロケットを飛ばして競争したわけではありません。が、南極点の初踏破を目指した3人のチームは、全員が同時に南極大陸に立ち、争っていたのです。それは191112年の夏(南極では年末が夏)のことでした。

南極大陸に最初に上陸したのは、イギリスのスコット隊でした。

スコット隊は、イギリスが国の威信を賭けて編成したチームで、最新式の動力式そり(詳細不明)と小型の馬、牛革製の防寒具を用意していました。しかもスコットは、それ以前にも南極点を目指して進んだこともあります。とにかく、国のバックアップがついた、最強のチームだったのです。

スコットが上陸した地点は、極からは少々遠い地点でした。しかし、イギリスは前々から南極の調査を重ねていたので、地の利がある箇所を上陸地点に選んだようです。

次に上陸したのは、ノルウェーのアムンゼンでした。

実はアムンゼンは、北極点を目指していました。彼はその数年前には、ヨーロッパから北西に出発して、北米の北を通ってベーリング海まで出る航路を制覇しています。そしてその後、同じノルウェーの探検家で、北極海を探検したナンセンから、氷に潰されない画期的な船「フラム号」を譲って貰っています。次はいよいよ北極点、というはずでした。

しかしその準備のさなか、アメリカのピアリーが、北極点到達を果たしてしまいます。それはアムンゼンが出発を予定していた前年のことでした。

そのころは、イギリスが南極を目指す計画がすでに発表されていました。アムンゼンは南極行きを密かに決意したものの、当時の大国であるイギリスを刺激しない方が得策だと考えます。そして出航から2ヶ月たった後、入港地にて計画変更を突然発表し、すでに洋上にあったイギリス隊にも電報を打ったといわれています。

イギリス隊が本国を出たのは1910年六月、アムンゼンがノルウェーを出たのは八月のことです。対して、日本の白瀬が東京を出発したのは、すでに十一月のことでした。

白瀬もまた、子供の頃から北極を目指していましたが、ピアリーに先を越されて計画を変更した一人です。イギリスの計画も聞いていましたので、とにかく時間がない中で準備を進めなければなりませんでした。

探検の費用は、当初は国が出してくれる予定でした。実際に、衆議院では満場一致で補助金の支出が可決されます。が、明治政府は結局、まったく資金をだしませんでした。白瀬は、国民からの義捐金によって全てを準備し、足りない分は莫大な借金として背負ったままで出発することになります。

白瀬が東京を出た頃、スコット隊とアムンゼン隊は、それぞれニュージーランドとアフリカを出て、翌一月には南極に上陸を果たします。しかし出遅れた白瀬は、氷に阻まれたために同じ夏には上陸を果たせず、オーストラリアまで一時撤退することになってしまいました。そして同年十一月に南極大陸に向けて再出発、翌一月十六日にようやく上陸を果たします。

大陸上陸は、アムンゼン、スコットに遅れること丸一年でした。他の2隊は、上陸後半年を費やして現地で準備をしているのですが、白瀬にはもう時間がありません。そのまま極点を目指すことになりました。

しかし前進は思うようにならず、一月二十八日に進行を断念。その地を大和雪原(やまとゆきはら)と命名し、帰途についたのでした。栄光はなりませんでしたが、一人の死傷者も出しませんでした。その後、白瀬は借金返済に二十年をかけることになります。

さて一方、それに先立つ前年の十月十九日、アムンゼン隊が基地を出発しています。スコット隊は、同月二十四日に先発隊が出て、本体は十一月一日に出発します。

スコット隊自慢の動力車は、一週間後にはトラブルを起こして行動不能となります。スコットは馬ぞりで進行しますが、馬の足は氷上進軍に向かなかった上に、馬自体も凍死したりクレバスに落ちたりして失い、最終的には人力でそりをひいて進むことになります。

しかしアムンゼンは北極海での経験を生かし、犬ぞりとエスキモー服を用意し、さらに前年から、アザラシなどの肉をあちこちに配備していました。その甲斐あって1911年十二月十四日、遂に南極点に初到達します。

1912年一月十八日、南極点に到達したスコットが見たものは、ノルウェーの旗でした。その下には小さな箱が埋められており、箱の中にはアムンゼンの記録と、スコットへの手紙が入っていました。手紙には、尊敬するスコットと争うことになった苦しい胸の内が書かれていたと言われています。

また、近くには小さいキャンプが残され、中にはスコットのために食糧が残されていたということです。

スコットは失意の中を帰途につきますが、途中で猛吹雪に阻まれて進行不能になり、そのまま全滅します。最後の手記は三月二十九日。基地まで残り18キロのところでした。

RPGでの「冒険」も結構ですが、本物の冒険というものがどういうものなのか、多少は知っておいて欲しいと思っております。

学塾ヴィッセンブルク 朝倉  



おまけ

南極観測船の「しらせ」は、この南極に挑んだ白瀬矗(しらせ のぶ)中尉の名前に由来しています。
直接ではなく、間接的に無理矢理なのですが......。

南極観測船は、海上自衛隊に所属する艦艇(砕氷艦)です。
海上自衛隊の艦艇は、命名法も法律で決まっていまして、例えば潜水艦は全て「○○しお」、ヘリ搭載護衛艦は旧国名、などのように統一されています。
砕氷艦は当初、「山の名前」とされていました。そのため、先代は「ふじ」という名でした。(その前の「宗谷」は海上保安庁所属)
ところが、政府関係者なのか自衛隊関係者なのかはわかりませんが、熱い人がどこかにいたのでしょう。どうしても白瀬の名前を入れたかったようです。
南極に、白瀬の名がついた「白瀬氷河」があるからということで、「山の名前であること」を法改正して「山または氷河の名前」にして、観測船は「しらせ」と命名されたのです。

現在の南極観測船は、二代目「しらせ」です。
こちらも、本当は「混乱を避けるために以前使った名前は禁止」という基準があったのですが、名前を公募したら「しらせ」の票があまりにも多かったために、「先代は新型と交替で退役するんだからいいでしょ。ルール変更しちゃいましょ」となって命名されました。
白瀬の名前はまだまだ生きています。


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