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2017.07.04  あすなろ187 一休宗純

2017.05号

いつだったか、授業で室町時代の話をしたときに、「一休さんもこの時代」と言ったら「は? 誰それ」というような反応が返ってきたことがあります。昔はアニメが延々と放映されていたのですが、今時の若者はもう知らないのかなあ、とも思ったのですが、本は結構色々と出ていますし、そのくらいは知っていて欲しいなあと思ったので、書きます。

一休さんといえば、「とんち小僧」としての一連の話が有名です。中でも特に有名なのは、「このはし渡るべからず」と「屏風の虎」の二つでしょうか。

橋の前に「このはし渡るべからず」と書いた札を立ててあるのを見て、「はし(端)がダメなら真ん中を渡ればよい」と渡ったという話です。聞いたことないですか?

もう一つは、足利義満が「屏風の虎が夜な夜な抜け出して暴れるので、退治してくれ」と言うと、「では退治するので、屏風から虎を出してくれ」と返したという話です。

そんな一休さんとは何者なのか、という出自は、明確に書かれた書物が残っておりません。しかし、実は後小松天皇の落胤(らくいん=落とし子)だということが、当時から公然の秘密だったようです。

室町時代といえば南北朝時代から始まるわけですが、最後は足利義満により、北朝主導で合一に成功します。

その時、北朝側に即位していた天皇が、そのまま合一された朝廷の最初の天皇となります。これが、先に書いた後小松天皇です。

ちょうどその頃、後小松天皇の側室の一人が身ごもっておりました。しかし、この側室が南朝と通じているという噂が立ったため、この側室は、朝廷から離れて子を産みます。その子が千菊丸、後の一休でした。

そのようにして産まれた子ですので、政治闘争に巻き込まれないために、六歳で臨済宗の安国寺に出家に出され、周建と名付けられます。当時はこれが一番良い方法でした。

幼い頃からかなりの詩才を発揮した周建ですが、当時は様々な理由で出家に出された貴族の子が沢山いましたので、出自の自慢をする小僧が多く、周建はそんな欺瞞だらけの世界に反発するようになってきました。

僧界の出世権力争いに嫌気がさした周建は、幕府の庇護する安国寺を一七歳で出て行って、ボロ寺に住む謙翁宗為(けんおうそうい)和尚に弟子入りします。

ところで、臨済宗では、師によって公案という問題を出されて、これを座禅して考えることで悟りへと導かれます。そして最終的に、師に悟りを開いたと認められると、その証である印可(いんか)を与えられて、弟子を持つことが許されるようになります。弟子達にとっては、この印可をもらうことが、修行の最終目標となっていました。

ところがこの謙翁和尚は、上級クラスの寺の住職から何度も、印可を与えるので跡を継いで欲しいと言われていたのを断り続けて、一人で清貧な暮らしをして、托鉢で食いつなぐ生活をしているという人でした。

一休も謙翁の元で貧乏暮らしを続けた結果、三年後には、もうお前に教えることは何も無いと言われます。しかし、自分には印可が無いからお前にも印可を与えられぬ、と言われたので、周建は、ではせめてお名前を一文字くださいと言って、謙翁宗為の宗をもらった宗純を名乗ります。

さらに一年半経ったころ、謙翁は死去します。師を失った宗純は自殺未遂をはかるものの引き留められ、その後は新たに華叟宗曇(かそうそうどん)に弟子入りしました。

華叟和尚も本当は高僧なのですが、先の謙翁和尚よりもさらに厳しい極貧の暮らしをしていました。

あるとき華叟が出した公案に対して、宗純は、「有漏路(うろじ)より 無漏路(むろじ)へ帰る一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」という歌で答えます。ここから、宗純は華叟より「一休」という号を与えられます。二二歳のことでした。

有漏路とは煩悩の世界のことで、現世とも解釈できます。無漏路とは仏の世界です。確か、アニメの一休さんではこの歌を、「この世からあの世へ帰る一休み~」としていたと思います。だいたいそんな意味です。

二七歳の五月の夜、夜の琵琶湖で舟にゆられていた一休は、闇夜の中、カラスの声を聞きます。その瞬間、一休は悟ります。

「闇夜にもカラスはいる。ただ姿が見えないだけだ。仏も、ただ姿が見えないだけで、心の中にあるのだ」

「これまでの自分は、過去を嘆き、俗世を嘆いていた。そんな自分は今、カラスの声によって吹き飛ばされた。自分は生まれ変わった。まるで天地万物と一体になったようだ」

夜が明けて、師匠に早速これを伝えると

「しかしそれは羅漢(らかん=自分のためだけに悟りを開いた修行僧)の境地であり、作家(そけ=真に優れた禅者)ではないな」

と言われます。そこで一休は、

「ならばこれ以上欲しません。羅漢のままで結構です」と答えると、

「それこそが作家の心だ。其方は今、大悟した」と認められます。

師匠は印可を与えようとするのですが、一休はこれを断ります。それに対して、師匠は笑い飛ばして送り出したとも、一休は印可証を破ろうとしたともあって、真相はわかりません。(資料によって違うので、これ以上は原典にあたらないとダメなようです)

これ以降、一休は髪とひげを伸ばし始め、大徳寺(臨済宗の総本山)で大法要があった時には、豪華絢爛な場にボロの衣のままで出席したり、腰に三尺の刀(中身は木刀)を差して街を歩き回ったり、元旦にドクロ(もちろん本物)を乗せた杖を持って各戸を訪問したり、禅宗とは仲の悪い浄土真宗の法要に参列してそこの高僧と仲良くなったり、天台宗の延暦寺で土用干ししている経文の上で昼寝を始めたりと、その権威に逆らう姿や奇行によって、庶民の人気者となります。

それでもそれが許されたのは、やはり皇族であり、朝廷の庇護があったからのようです。一休が大徳寺の過剰な内紛に怒って餓死をしようとした時には、時の花園天皇から「師(一休)は朕を見捨てるのか」という勅宣が出されたと言われています。

七六歳の時、一休は森女(しんにょ)という、齢三〇の盲目の女性と、京都南部の田舎に結んだ酬恩庵で暮らし始めます。一休はこの女性にメロメロだったようで、エロエロな歌を何首も詠んでいます。

八一歳、天皇に頼まれて大徳寺の住職となりますが、酬恩庵から離れませんでした。

八八歳で大往生。最後の言葉は「死にとうない」だったと伝えられています。

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