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HOME雑記帳(あすなろ)あすなろ89 桃の節句(過去記事再掲)
2009.03号
梅の季節です。
三月がやってきます。
私の家は、男三人兄弟でした。
その上、父方の従兄(いとこ)も男でしたので、この季節のイベントには、あまり縁無く育ってきました。
すなわち、雛(ひな)祭りのことです。
母方には女の従姉妹(いとこ)もいるのですが、全員が新幹線で一時間半以上離れた所でしたので、会うことすらあまり無い程度なのです。
子供の頃に見た雛人形は、友達の妹の雛壇をたまたま一度見たっきりでした。
その後オトナになってから、友達の家で娘のために飾られた雛壇を、一度だけ見たことがあるのですが、私の人生では雛人形との接点なんて、その程度だったのですよ。
そんな私が先日、雛人形を買ってきてしまいました。
先述した、過去に見た二つの雛人形は、共に五段以上あるものでした。
しかし、結局自分で選んだのは、一番上の二人だけのタイプのものです。
一段だけ。
自分で選ぼうと思って改めて見てみると、同じお値段で比べたときには、どうしても一つ一つの人形が小さくなっちゃうんですよね。
ですので、一点豪華主義ということで。
五月人形の兜(かぶと)を選んだときも、鎧(よろい)付きだと一つ一つが小さくなってしまうので、やはり兜だけのものを選びました。
もうそういう趣味だとしか言いようがないですね。
一段だけの飾りは、親王(しんのう)飾りというのだそうです。
今回初めて知りました。
さらに調べていくと、どうやらこれが本来の雛人形の姿だったようです。
雛祭りの原型となったのは、流し雛(ながしびな)という行事でした。
男女を象った(かたどった)人形に身の穢れ(けがれ)を封じ込めて、水に流すことで身を清めます。
これは古くは源氏物語にも登場するそうで、今でも各地で行われています。
ただし、平安時代の記録では、あくまで貴族の子女(しじょ)による「遊び事」であり、儀式ではなかったようです。
江戸時代初期、これと上巳(じょうし)の節句とを結びつけたのが、雛祭りのはじまりだったようです。
上巳の節句とは、三月三日のこと。
江戸幕府が定めた五節句(又は、五節供)のうちの一つです。
一応補足しておきますと、五節句とは
一月七日 人日(じんじつ)の節句
三月三日 上巳の節句
五月五日 端午(たんご)の節句
七月七日 七夕(しちせき)の節句
九月九日 重陽(ちょうよう)の節句
のことで、盆と正月以外に幕府が認めた、数少ない祝日でした。
その一つに、武家の嫁入り道具程度にしか認識されていなかった雛人形を、結びつけたということらしいです。
そういうわけですから、私が思うに、最初は人形屋の商売戦略だったのではないのでしょうか。
土用の丑にウナギを食べるのは、鰻屋の夏場の売り上げを伸ばすために平賀源内が思いついた作戦だというのは有名な話です。
最近では、バレンタインとチョコレートを結びつけた菓子メーカーのアレと同じでしょう。
日本人の気質なんて、昔からあまり変わってないので、多分そんなところだと思います。
ついでに、菱餅(ひしもち)や雛あられも、それに便乗した各業界が作った風習ではないかと思います。
さて、初期の雛人形は、男女一対の内裏雛(だいりびな)だけでした。
この二人だけという基本形は、江戸末期まで続きます。
ちなみに、有名な歌詞にもある「お内裏様とお雛様」という言い方は完全な誤りで、二人ともお内裏様なのだそうです。
作詞者であるサトーハチローは後に間違いに気付いて、「あの歌は捨てたい」と言っていたとか。
このあたりの頃までは、形代(かたしろ=人間を象っただけのもの)程度の簡素なものだったようですが、時代を経るにつれて、次第に豪華になっていきます。
江戸時代というのは、武士が貧乏に、町人が金持ちになっていった時代ですから、その流れは、ある意味必然ともいえます。
その後、人形は精巧さを増し、十二単(じゅうにひとえ)を着始め、金屏風(びょうぶ)が付き、全体に大型化してきます。
享保雛と呼ばれるものは、大きいものでは人形だけで70~90cmくらいの高さがあったようです。
90cmといえば、畳の短い方の辺の長さと同じですから、かなり大型です。
しかし幕府は享保の御触書で、町人の贅沢を規制するべく、人形の高さを24cmに制限します。
が、今度はそれを逆手にとって、芥子雛(けしびな)と呼ばれるわずか三センチくらいの、しかし精巧な作りのものが流行したといいます。
そして江戸後期、有職雛(ゆうそくびな)と呼ばれるものが現れます。
これはそれまでよりも、平安時代の宮中の装束を、より忠実に再現したものでした。
さらにその後、古今雛(こきんびな)という、画期的商品が登場します。
これは、顔の作成に本格的な山車職人を登用して「今風(当時)」な顔つきとし、衣装は、金糸などを使った刺繍で派手に仕立て、それを新たに二畳台に据えたものでした。
現在の雛人形は、この古今雛の流れを継いでいます。
ところで、先に菱餅や雛あられは便乗商売ではないか、と書きましたが、菱餅に限っては、完全にそれだけだとは言い切れない節もあります。
というのも、古代中国ではこの季節、ハハコグサを入れた餅を食べる風習があったからです。
これが日本に伝わって蓬餅(よもぎもち)に変わったところから始まります。
今でも、季節物としてありますね。
ですが、江戸初期にはこれに「菱の餅」が加わるようになります。
ここで言う菱(ひし)は、形ではなくて植物の名前です。
菱餅とは本来、菱の実が入った餅のことだったのです。
この餅、色は白です。
これと先に挙げた、緑色の蓬餅を交互に重ねて、また菱形に装飾して、雛祭りと合わせていったようです。
蓬餅を食べるだけだった風習を、うまく雛飾りに取り込ませていったことがうかがえます。
その後、明治に入って山梔子(くちなし)で赤く染めた餅が登場し、今のような三色餅ができあがります。
雛あられは、この色に合わせて作っただけのものです。
こちらは完全に便乗商法です。
だから雛あられなんて買わない、というわけではないのですが、歴史はかなり浅い、というようですね。
歴史が浅い、といえば、「雛飾りの片づけが遅いと婚期が遅れる」という話は、昭和初期にできた俗説のようです。
また、七段飾り以上は、高度成長期に登場したもののようです。
バブル後以降は、出しやすくて片づけやすい三段以内のものが流行だそうですってあ―。
まさか俺、流行に乗っちゃった?
学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義