2018年5月

あすなろ162 西之島(過去記事)

あすなろ

 

 

 

2015.04号

 

小笠原諸島の西之島はご存じでしょうか。

こうしている今も、溶岩を流し続けて領土拡張している真っ最中の島です。

 

最初は、西之島のすぐ南の海上(島から500メートルくらい)で噴火が始まって、新しい島が出現しました。

これが2013年の11月のことです。

 

その後、噴火が続くにつれて溶岩は広がり、西之島本体と一つになります。

その後もさらに噴火は続き、今では元の島を覆い尽くしています。

 

次の図は、成長していく西之島の様子です。

左から順に、2013年12月、2014年3月、2015年3月です。

 

 

左上の本島に対して、右下の新島が徐々に大きくなって、本島を飲み込んでいく様子がわかると思います。

 

そして2005年3月の調査では、今回の噴火活動では初めて、拡大が停止したという発表がありました。

しかし、溶岩の噴出が止まったわけではありませんので、まだ面積は広がっていく可能性もあります。

 

実はこの島は、1970年代から、島の面積を増減させてきました。

 

1970年代までの西之島は、南北に細長い島(次図左上)でした。

しかし1973年、その南方海上に火山が出現して、広がった溶岩はもとの島とつながります。

今回の噴火と同じような流れですね。

 

このときの噴火は、およそ1年くらいで収束しました。

噴火終了直後が、次図の右下です。

最終的には、こんなU字型の島となりました。

 


西之島の成長

左上から下へ順に右下まで


 

ところが、これ以降は波による激しい浸食を受けて、島はどんどん削られていきます。

その一方で、U字型の「湾」には土砂が打ち寄せられて、徐々に陸地化していきます。

そうやって堆積と浸食を続けた結果、1990年頃には、ほぼ四角い形状の島へと変わっていました。

湾の最深部は、もはや池です。

 


島の最南端は浸食されながら、湾が堆積で埋まり始める


湾は完全に埋まって池となる
この後さらに、最北端は丸く削られる


 

その後も浸食を受けて年々減少中のところへ、今回の噴火です。

1年余りの噴火の結果、島の面積は一気に10倍にまで広がりました。

今後も面積は増加を続けるのか、それともまた以前のように減少に転ずるのか、まだまだわかりません。

 

現在、普通に存在している島々も、最初はこうやって広がったり削られたりしながら現在の形になっていったと思うと、なかなか感慨深いものがあります。

 

とはいえ、この島がそのまま拡大を続けて四国のようになるかといえば、そう簡単にはいかないでしょう。

 

今回の噴火で急激に島が拡大できたのは、島の周辺が最初から浅瀬だったからです。

海底地形図を見ればわかりますが、島が元の10倍になったなった、なんて言っても、それは所詮、海底火山体の山頂に収まっているレベルなのです。

 


西之島周辺海底の立体図
右上拡大図の濃い部分が今回の新島
北側にはまだ広がる余地があるが、南方向はすでに限界であることがわかる


 

もちろん、この海底火山を覆うような大規模噴火が起これば、巨大な島に成長することは可能です。

しかしそうなると、今度は西之島の東にある父島で、噴煙などによる大規模災害が起こる可能性もあります。

 

そうでなくても、現時点ですでに溶岩が津波を起こす可能性まで出てきました。

 

右図の通り、南側は海底火山体の山頂火口縁まで迫っています。

このまま上に溶岩が積み重なると、ある時島の一部が崩壊して、海底の斜面を駆け下りることがあります。

これは、陸上で言うところの火砕流に相当するのですが、その規模次第では重力波が発生して、津波が発生することもあるのです。

 

西之島の場合、父島に達する津波は1メートル程度と計算されています。

と書くと小規模なのですが、巨大な島を願うなら、それに応じたリスクは高まる、ということですね。

 

ともあれ、ハワイのキラウエア火山のように、少しずつでもずっと溶岩を出し続けていけば、徐々に大きい島に成長することでしょう。

もしかしたら、四国レベルにまで大きくなるかもしれませんね。

夢は広がります。

 

ま、とりあえず、あと1万年くらい待ちましょうよ。

うわー楽しみですねー。

 

学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義

あすなろ199 かけられる数×かける数

あすなろ

 

 

 

2018.05号

 

 

ニセ科学という言葉があります。

 
 
 

私もこれまで時折、この手のものを俎上に上げて叩いてきたのですが、
そう思って自分の文章を読み返してみると、
10年ほど前は「エセ科学」と書いていました。
 

その頃はまだ、今のような定型句が無かったということなのだろうと思います。
 
 
 
さて、個人的に最近注目の科学雑誌……というか、理科雑誌があるのですが、
その4月号の特集が、
「ニセ科学を斬る! 2018」
というものでしたので、試しに買ってみました。
 
 
 

そうしたらですね、その一本目がコレ。
 
 
 
「『かけ算には順序がある』と教える教師たち ~正解が×にされる不条理」
 
 
 
名前をさらしますと、投稿者は山本弘氏。
 
 
 
山本氏の名前は、二十年以上前から知っております。
 
「と学会」という集まりを立ち上げて、
「トンデモ科学」を見つけてきては世に晒すということをしていて、
中々面白くて好きだったのですが、今回の山本氏には心底ガッカリですわホント。
 
この雑誌も、他の記事やバックナンバーは面白かったのになあ……。
 
 
 
ネットで調べてみると、この問題は結構前からずっと論争になっていたようです。
 
私も以前、チラリとこの手の話を聞いたことがあったのですが、
ウィキペディアで「かけ算の順序問題」なんて項目ができるほどの
ガチ論争になっているとは思ってもいませんでした。
 
 
 
まずは、これがどういう問題なのかをご紹介します。
 


 
問題「5円玉が3枚でいくらか」
 
 
 
・「5×3=15」→正解
 
 
 
・「3×5=15」→不正解
 
 
 
→3×5がバツなのは納得いかない!
 


 
で、問題を論じているサイトに行くと、皆様賢い方ばかりなのか、
無駄に難しい言葉で長々と難しく論じる人の多いこと多いこと。
 
もっと普通に書けばいいのに。
 
 
 
こういうレッテル貼りはあまり好きでは無いのですが、
この納得いかない派の人たちの理屈を読む限り、
あまり数学が好きではなかった方が多いようです。
 
また、「ナンセンス」などという、
もう50年前に流行した死語も頻繁に登場しますので、
反体制がカッコイイという時代に育ったご老人が多いのでしょうか。
 
 
 
ただ、逆に「順序が大切派」の理屈も、どうもフニャフニャしているんでよね。
 
 
 
簡単にまとめると、納得いかない派は、
 
「数学的では無い」
 
「社会では役に立たない」
 
という論調に対して、順序守る派は
 
「教育上」
 
「約束になっている」
 
「合理的である」
 
という主張なので、全くかみ合ってないのです。
 
 
 
さて、納得行かない派の中で、最も多く登場する用語が「交換法則」、
つまりかけ算は、順を入れかえても同じというアレです。
 
交換法則により順序は決まってないはずだ、
交換法則を習うときに混乱する、
数学的ではないからおかしい、
 
などなど。
 
 
 
ああそうですかー。
 
そんなにおっしゃるならば、納得いかない派の大好きな、
「数学的」という方面からお話してみましょうか。
 
 
 
数学というものは、全ての学問の中で、最も理屈に厳しい学問です。
 
 
 
他の科学では、事実を基にして仮設を立てたあとは、
それが一般的に正しいかは実験によって確認され、
反例が出ないときは正しいとされます。
 
 
 
しかし数学の場合。
 
例えば円周率は循環しない数ですが、他の科学のように
 
「誰が実験(計算)しても循環しなかったので、循環しないといえる」
 
などという曖昧な決め方は認められません。
 
例えば1兆桁まで計算して見つからなくても、
次の桁で見つかる可能性がゼロでない以上は、絶対にダメなのです。
 
 
 
今回のかけ算問題は、そういった数学の
 
「細かさ」
「うるささ」
 
に触れる第一歩である、と言えます。
 
 
 
「aがn個あるとき、a×nと定義する」
 
 
 
これが、日本の教育におけるかけ算の定義です。
 
定義なのです。
 
ここから外れることは許されません。
 
 
 
しかし後に、順序は指摘されなくなります。
 
定義を十分に理解した後は、
新たな公式を活用することで、
解答する速度を優先させるようになるからです。
 
今回の話でいうと、
その公式にあたるのが交換法則ですね。
 
 
 
逆に、
次の段階に進むまでは、
定義に従わなければいけないのです。
 
算数・数学とは、ある意味そういう訓練なのですから。
 
 
 
小学校のかけ算に限りません。
 
まだたくさん例はあります。
 
皆さん忘れているだけです。
 
 
 
例えば、中学一年で習う、一次方程式です。
 
 
 
方程式を解く際に、移項をしますよね。
 

 

しかしこれは、定義に従った計算法ではありません。
 
定義に従った計算法は、
「両辺に同じ数を加える」などの
「等式の性質」を利用したものとなります。

 

 

移項を習う前のこの時点で、
移項を使って解いたら当然バツです。
 
定義に従っていないからです。
 
これは、
かけ算の順序を守らないとバツなのと、
同じことなのです。
 
移項を習ったあとは、移項でかまいません。
 
公式を使って、計算速度を優先させるからです。
 
 
 
他にもあります。
 
 
 
高校二年で微分を習うとき、最初に登場するのは極限値を使った導関数の計算です。
 
これが定義に従った微分法です。

 

 

微分の公式
「xのn乗の微分=nxのn-1乗」
を知っていても、ここで使ってはいけません。
 

 

それは計算上の公式であって、
定義に従っていないからです。
 
 
 
さらに、web上の意見では、
 
「大学生がマルで小学生がバツなんてものはあってはいけない」
 
なんてものもありましたが、では図形の証明はどうでしょうか。
 

高校入試の数学の問題では、
三角形の合同証明には
合同条件をきっちり書かないと減点です。

 

 

しかし、大学レベルになると、
三角形の合同条件なんていちいち書きません。
 
書いたとしても、「①②③から合同である」程度です。
 
というわけで、
大学生がマルで中学生がバツの例、ありますね。
 
 
 
そうそう。
 
一番笑ったのが、
「一律に×にしてしまうと、自由な発想がはぐくまれない」
などという反対論。
 
 
 
数学では、
ルールから外れた自由な発想などというものは
求められていません。
 
数学とは、たった一つの正解を求める学問なのです。
 
 
 
よく、
「国語では正解は一つでは無い」
とか言っちゃったりして、
「社会に出れば正解の無い問題はいっぱいある云々」
というお説教を始めちゃう人がいますが、
 
 
 
それは違います。
 
 
 
社会に出たからこそ、正解と不正解は、厳密に区別しなければいけません。
 
 
 
仮にどんな理不尽なルールであろうとも、
そこから外れた行動は、
そのルールがある以上は不正解なのです。
 
そのルールの範囲内で行動するのが、オトナというものなのです。
 
こんなものは、
制限速度や一時停止などの交通法規を出すまでもないですよね。
 
 
 
算数や数学によって、
「決まりに従うこと」と、
「間違いを間違いと認めること」を
学んでいただきたいと思います。
 
反対派の言い訳は、読んでいて見苦しいです。
 
 
 
学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義
 
 
 


 
追記
 
ちょっと考え方を変えるとわかるのですが、
 
「用意するもの・・・3×鉛筆」
 
と、
 
「用意するもの・・・鉛筆×3」
 
では、
別にどっちでも同じと思いますか?
 
普通は、
上の書き方に違和感を感じると思うのですが。
 
ですからやはり、
日本においては、かける数が後なのです。
 
 
 
ところで、西洋諸国では、
かける数とかけられず数の順序を、
日本とは逆に教えているそうです。
 
しかしこれは、言語の構成上の問題だと思います。
 
 
 
例えば日本では、
 
「鉛筆3本」
 
と表記しますが、英語圏では
 
「3 鉛筆」(three pencils)
 
と表現するからです。
 
確かに日本語でも「3本の鉛筆」という言い方はありますが、
その場合は助詞「の」を伴う必要があります。
 
 
 
これに関連するお話は、
以前にも、さらにもっと以前にも
書いたことがあります。

7の倍数判別法

その他

倍数判別法というものがあります。

 

2の倍数:下一桁が偶数
5の倍数:下一桁が0か5

 

くらいはすぐにわかると思いますが、
それ以外でも、

 

4の倍数:下二桁が4の倍数
8の倍数:下三桁が8の倍数

 

3の倍数:各位の数字の和が3の倍数
9の倍数:各位の数字の和が9の倍数

 

6の倍数:3の倍数で偶数

 

あたりは、中学受験用のテキストには載っています。

 

問題は、7の倍数です。

 

インターネット上には、これの見つけ方があるらしいのですが、聞く話によると、どうも計算が大変らしいです。

 

で、1ヶ月ほど前、茗溪の宿題をヒントに考えてみました。
そうしたら、かけ算九九と大きい数の引き算さえできれば算出できる方法を見つけましたので、ここに上げておきます。

 

ご自由にお使いください。

 

学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義

 

 

あすなろ172 桜田門外の変(過去記事)

あすなろ

 

 

 

2016.02号

 

前回の忠臣蔵に引き続き、今回は桜田門外の変です。

言い訳第二号です。

 

もう一つの雪の朝の事件、桜田門外の変は、幕末の頃に起こった事件でした。

 

忠臣蔵で殺された吉良が旗本だったのに対して、桜田門外で殺害された井伊直弼は、江戸幕府の大老でした。

大老とは、時の幕府の最高権力者で、言ってみれば首相のようなものですので、首相暗殺レベルの事件です。

 

この事件は、歴史の教科書的には、

「井伊直弼はアメリカとの日米修好通商条約を独断で結んで、それに反対する吉田松陰らを安政の大獄で処罰した。そこで反感を買って殺された」

というようなことになっています。

 

でも、もう少し詳しく見ていきます。

本当は、もっと複雑で根が深い話です。

 

最初のきっかけは、ペリーの一回目の来航でした。

この時の将軍は第十二代家慶(いえのぶ)だったのですが、ペリー来航時には、もうさっさと跡継ぎを決めないとやばい状態だったのです。

しかし、問題がありました。

 

次期将軍候補である家定(いえさだ)は、よく言えば病弱、悪く言えば役に立つ見込みがない人物だったのです。

脳性麻痺だったとも言われていまして、会話はできたようですが、後には廃人同様だったこともあったようですから、確かに将軍が務まるような人物ではなかったようです。

 

ともかく、来年にはペリーに何らかの返事をしなければいけないという局面で、家定に任せるわけにはいかないと主張する人物が現れました。

水戸藩の徳川斉昭(なりあき)です。

 

彼の一推しは、一橋家に養子に出した慶喜(よしのぶ)です。

後の十五代将軍ですね。

 

確かに慶喜は、優秀なことで有名だったようです。

しかし斉昭は、老中の阿部正弘に「次には慶喜にするから」と説得されて、引き下がります。

そして、家定が第十三代将軍に就くこととなりました。

 

家定は先述の通りの人物でしたので、跡継ぎの男子を儲けることは無理だということが明らかでした。

そこで、徳川斉昭を中心に、今度こそ慶喜にしなければという運動がおこります。

今回は、先述の老中阿部正弘も賛同しています。

しかし、本来の後継者順では、次は家茂(いえもち)のはずでした。

 

跡継ぎ争いによる騒乱は、日本史上で何度も起こっています。

古くは飛鳥時代の壬申の乱が、その後も平安時代の保元の乱、室町時代の応仁の乱と、その度に内戦が起こり、政治が大混乱を来(きた)しています。

 

しかし徳川家康が、ここで一つの規則を定めます。

それが、長子相続というものです。

現在の天皇家の即位順と同じものですので、今からすれば至極当たり前のようですが、戦国時代までは、家督を継ぐのは長子とは限りませんでした。

戦国武将を調べるとわかります。

 

家康は三代将軍を定める際に、もっと優秀とされていた人物を差し置いて、家光を指名します。

この前例があったからこそ、その後何百年も、江戸では後継者争いが起こらなかったのです。

しかし今回の徳川斉昭による慶喜推しは、これに反するものでした。

 

しかしここで、この派閥を支えていた老中阿部正弘が急死します。

すると、反斉昭派が巻き返しを図ります。

さらにこのころ、ハリスが日米修好通商条約の締結を迫っていて、将軍家定の病状はいよいよ重体となるし、開国か攘夷か、跡継ぎは誰がいいのか、大奥まで巻き込んで、城内は大混乱となります。

 

そんな時、それをまとめる大老として指名されたのが、井伊直弼でした。

彼は、就任二ヶ月後には後継を家茂と定めます。

 

実を言うと、直弼自身は井伊家の十四男で、父親が亡くなってから自分に家督が回ってくるまで、十五年間を自宅の離れで耐えています。

そんな直弼ですから、後継の順序に厳しいのは、ある意味当然だったともいえます。

 

また、現将軍の家定自身も、どうも慶喜には将軍を譲りたくなかったようです。

イケメンでモテモテなのが気にくわないとか。

いやこれマジで。

 

ともかく、残るはアメリカとの条約です。

 

直弼は、各大名に意見を聞いて回った結果、開国することはやむを得ないが、天皇の勅許(ちょっきょ)を取る必要がある、という結論に達しました。

天皇云々は、反対派を納得させるためのものでしょうね。

だって別に、鎖国の時は天皇の許可なんて取ってないし、幕府は朝廷を実効支配していて、朝廷は幕府に逆らえない状態だったわけですから。

 

それでも一応は筋を通すために朝廷に行くのですが、天皇は勅許を出さずに

「衆議を尽くした上で再度奏聞(そうもん)せよ」

なんて言います。

要は、もっと話し合ってからもう一回来いというわけです。

 

ところが、条約交渉の担当者は直弼に、

「どうしてもの時は、結んじゃってもいいよねいいよね」

と言ってきます。

それに対して直弼が

「その時は仕方ないけど、でもできる限り粘れよ」

と答えると、担当者はその日のうちにさっさと条約に調印してしまいます。

ひどいお役所仕事です。

 

直弼からしてみれば望まぬ結果となってしまったのですが、それでも上司の責任です。

ちなみに、現在の歴史の教科書では、直弼が反対派を無視して条約を結んだことになっています。

 

さて、反対派の斉昭はといえば、跡継ぎ問題で二連敗したあと、条約問題でも言い分は通らず、しかも直弼の奴は天皇の勅許ナシでやりやがったときて、もう怒り心頭で江戸城に怒鳴り込みに行きます。

しかし、定められた登城日ではなかったのに勝手に来たということで、逆に謹慎を食らってしまいます。

 

すると今度は、それに抗議する島津藩は兵を引き連れて江戸に向かおうとします。

これは藩主が急死したので中止されましたが、水戸藩は水戸藩で、幕府を通さずに裏ルートで朝廷にチクりに行きます。

 

以上の行為は、幕府に対する裏切り行為で、反乱の一歩手前です。

というか、ほぼ反乱ですね。

そこで幕府は、そういう勢力を次々と捕らえて、死罪、強制隠居、謹慎などの処分を与えていきました。

 

これが安政の大獄です。

 

安政の大獄といえば、教科書的には「吉田松陰が処刑された」ですが、ここにも誤解があります。

 

鎖国のルールとして、日本人の海外渡航禁止があります。

しかし松陰はこれを破って、ペリーの船でアメリカに行こうとしました。

そしてその件で捕らえられると、今度は老中暗殺計画なんてのをベラベラとしゃべり始めました。

だから死刑になったのです。

直弼とかそんなのは関係なく、そりゃ死刑でしょ普通。

 

ともかく、このように直弼によってギッチギチに追い詰められた水戸藩は、ついに逆ギレをおこします。

雪の早朝、江戸城の桜田門の前で、登城中の井伊直弼は水戸藩士に襲われて殺害されました。

桜田門外の変です。

 

結局、悪いのは誰だったのでしょうか。

 

学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義

あすなろ171 忠臣蔵(過去記事)

あすなろ

 

 

 

2016.01号

 

こんにちは。

久々にウソを教えてしまいましたので弁解でございます。

 

先日、5年生に幕末のあたりを教えていたときのことです。

(四谷大塚のカリキュラムでは、5年生の後半で歴史を学びます)

 

桜田門外の変が登場したとき、

「これは年末によくやっている忠臣蔵なんだけど、忠臣蔵知ってる?」

と聞いてみても反応が薄いので、まあここに書いてみようかなんて調べ始めたわけですよ。

でもアレ?

ナンカチガウ。

 

なんと、「桜田門外の変」と「忠臣蔵」は、全く別のお話でした。

 

「なんと」じゃねえだろそりゃそうだろと思うかもしれません。

ですよねー。

でもなんだか、私の中では見事に混ざっておりました。

 

いや、両方ともちゃんと知っていたんですよ。

浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)も吉良上野介(きらこうずけのすけ)も大石内蔵助(おおいしくらのすけ)も松の廊下も赤穂浪士(あこうろうし)も、また、井伊直弼(いいなおすけ)も徳川斉昭(とくがわなりあき)も彦根城も安政の大獄も水戸藩士も、全部スラスラ出てくるのに混ざっていたのですからもうダメかもしらんな俺。

 

ただ二つとも、

「雪の降る早朝、江戸の武家屋敷町で逆ギレ浪人集団が起こした暗殺事件」

という共通のクライマックスを持っているので、すっかり混ざってしまったわけです。

どうもすみません。

 

もう少し言い訳をさせていただけるのなら、共に

「殺されたのは幕府の上役で、殺したのはその人と対立した殿様の元部下」

「殺された方は悪者扱いされていたが本当は悪者じゃなかった説を多く見かける」

という点でも似ています。

似てるでしょ?

でしょ?

 

それぞれ、ちゃんとご説明いたします。

まずは、忠臣蔵の方です。

 

こちらは、おおざっぱには

 

1.江戸城にて、赤穂城主の浅野内匠頭長矩(ながのり)が、江戸城内の松の廊下にて、吉良上野介義央(よしなか)に突然斬りかかる。

 

2.その罰として、浅野長矩は即日切腹。浅野家はお家取り潰し(=大名として終了・城は別の大名家に明け渡し)。吉良はお咎(とが)めなし。

 

3.一年九ヶ月後の十二月十四日未明、浅野家の元部下である大石内蔵助を筆頭とした赤穂四十七士が、吉良の屋敷を襲撃して吉良義央を殺害。

 

といった流れのお話です。

 

時は元禄、五代目将軍徳川綱吉の頃の話です。

習った人は知っていると思いますが、元禄文化の元禄です。

江戸時代の前半頃ですね。

 

先に挙げたあらすじは、一応、確かな事実だけを並べたものです。

しかしいわゆる「忠臣蔵」は、厳密には「事件を元にしたフィクション」のことです。

 

赤穂浪士による屋敷の襲撃自体はありました。

江戸を揺るがす大事件でした。

そしてその後、この事件を題材とした歌舞伎や人形浄瑠璃がたくさん作られました。

今でいうところの「映画化決定!」ですね。

 

て、その映画……じゃなくて歌舞伎用の原作を作る際に、どうやら脚本家がオリジナルアレンジを色々と入れたようなのです。

 

この話のクライマックスは、赤穂浪士による吉良屋敷討ち入りです。

それを盛り上げるためには、襲撃した赤穂浪士の正当性とが必要です。

そのためには、その発端となった浅野長矩の刃傷沙汰にも理由が必要です。

 

その結果、「忠臣蔵」という話の世界では、

「江戸城にて、若い浅野は指南役の吉良に対する賄賂が足りなかったために嘘を教えられたり必要な事を教えてもらえなかったりした」

ため、松の廊下で浅野とすれちがった時に

「いよいよ浅野は堪忍の緒が切れて」

斬りかかるに至ったとなっています。

赤穂浪士は、

「そんな主人の無念を果たすために、仇討ちを決行した」

というわけです。

 

吉良家は高家(こうけ)と言って、幕府の儀式などの取り仕切りができる数少ない名門でした。

そしてこの年は、江戸城が朝廷からの勅使を迎えるイベントを取り仕切る代表として勤務していました。

その吉良の補佐役として働いていたのが浅野でした。

 

浅野がキレたのは、そんなイベントの最終日です。

接待係が刃物を振り回しちゃったものですから、朝廷に威信を見せつけるつもりの幕府は面目丸つぶれです。

即日切腹とお家取り潰しは、やむを得ない措置といえます。

 

しかし浅野を打ち首(罪人扱い)にしないで切腹(武士扱い)としたのは、その厳しい判決に対する温情とも解釈できます。

 

さて、「賄賂」の件ですが。

 

挨拶代わりの「心付け」は、当時は普通に行われていました。

それが賄賂と呼ばれるレベルになっていた可能性も充分にあります。

しかし、吉良家は浅野家に対して石高はずっと少ないので、要は金持ち相手の指南役で飯食ってるような立場です。

指南役は他にもいますので、評判が下がったらクビの可能性もある中、そこまで浅野に対して横柄な態度を取れるものなのか、という疑問が残ります。

 

さらに実は、この二人のペアによる接待は、これが二度目のことでした。

すでに一度、同じ役をそつなくこなしていますので、少なくとも一度は必要なことを教わっているわけです。

さらにさらに、そもそも今回の準備期間は、吉良は京に出張に行っていて、江戸の浅野はほぼ一人で準備をしているのです。

浅野は吉良に斬りかかるときに「この間の遺恨覚えたるか」と叫んだそうですが、

この間?

一人で準備させられた恨みとか?

 

一方、吉良は浅野に対して刀に手をかけなかったために、一方的な被害者としてお咎めなしでした。

喧嘩両成敗が普通だった世での二人の処分のギャップは江戸でも話題になって、その後の赤穂浪士の逆襲劇も、いつか起こるだろうと噂されていたようです。

しかも吉良は武士としては最悪の弱虫扱いです。

 

最近は、

「浅野は元々キレやすい性格だった」

「吉良は地元では名君だった」

という方向での検証をよく見かけます。

しかし吉良の名君説も、吉良の地元が不名誉を被りたくないために話を盛った可能性もあります。

 

また、主君の仇討ちとして討ち入りした赤穂浪士も、本当は、取り潰しなって無職になった逆恨みの可能性もゼロではありません。

 

結局、今回の実行犯である赤穂浪士達は、浅野長矩同様、武士としての切腹を命ぜられました。

また、討ち入り後は吉良義央の罪が再検証されて、最終的に吉良家は断絶に至ります。

幕府としては、このあたりが騒ぎを収める「落としどころ」だったのでしょうね。

 

桜田門外の変の話は、次回に回すことにします。

紙面が尽きてしまいました。

 

学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義

あすなろ169 私的水族館案内(過去記事)

あすなろ

 

 

 

2015.11号

 

我が家は夫婦で水族館が好きです。

 

子供がいない頃や小さかった頃までは、二人(もしくは二人半くらい)で、あちこちの水族館に行きました。

 

いや、水族館はいいですよ。

動物園と比べるとよくわかるのですが、

 

1.夏でも暑くない

 

2.冬でも寒くない

 

3.展示から展示までの距離が短い

 

4.坂を上ったり下りたりが少ない

 

んん?

並べてみると、なんか消極的な理由ばっかりですがどうしてでしょう。

ついでに言うと、博物館も好きなのですが、理由は……

あまり気にしないことにしましょう。

 

茨城で水族館といえば、もちろん大洗のアクアワールドでしょう。

私は何回行ったかわかりませんが、少なくとも5~6回は行っているはずです。

 

アクアワールドになる前の大洗水族館にも一度は行っているはずなのですが、あんまりよく覚えていません。

よくある地方の水族館で、「ふーん」なレベルだったからだと思います。

 

しかし、アクアワールドになってからは、相当よくなりました。

水族館としては多分、全国レベルでもかなり大規模な方だと思います。

 

ここの売りは、サメ関係の展示です。

種類数は日本一を謳っています。

さらに、生きた卵発生(卵の中で育つ様子)が見られるなんて、多分他ではありません。

生きたマンボウもいますが、これも他の水族館ではまず見られません。

 

私の個人的なお勧めは、エトピリカです。

エトピリカというのは、北の方に住んでいる海鳥なのですが、こいつらは空も海中も同じように「羽ばたいて飛ぶ」んですよ。

 

 

 

なお、泳ぐ水鳥は色々いますが、空も海も同じように翼で推進するのは、このツノメドリ(パッフィン)の仲間だけです。

それ以外の鳥と言えば、翼で泳ぐペンギンは飛べないし、ウは飛べるけど水中では翼を使わずに足だけで推進するし、カツオドリは確かに翼を広げて潜水するけどあれば舵ですからね。

 

確かエトピリカは、初めてアクアワールドに行ったときにはいなくて、途中から追加されたと思いました。

今では当たり前のようにいますが、わたしゃ最初にこれを見たときには感動しましたよ。

だってそれまでは、写真でしか見たことがなかったんですよ。

本当にこの感動を分けてあげたいあなたにも。

 

アクアワールドの話に戻りますと、館内にミュージアムショップ(土産物屋)が2軒あるとか、食堂で海鮮丼が食べられるとか、そんなのも何げにここだけです。

県外の水族館に行って失望しないように。

特に、都内のハシゴできるレベルの数カ所のアレとか。

ただ、あれはあれで楽しめるんですけどね。

 

千葉の鴨川シーワールドも、面白いところです。

シャチのショウは多分ここだけですし、ベルーガの飼育もここが一番最初らしいです。

一度シャチショウを見てしまうと、その後はイルカのショウが迫力不足に見えてしまうでしょう。

(犬吠埼マリンパークを除く)→※

 

福島のアクアマリンにも一度だけ行きました。

サメが通る度に引っ込むガーデンイール(チンアナゴ)には癒やされます。

サンマの遊泳という珍しい展示もあったのですが、地震の後は、やっていないそうです。

 

八景島シーパラダイスには、カミサンと二人でクルマで行きました。

ゴールデンウイークだったので、もう首都高から渋滞で、現地に着いてからもものすごい人の数で、一通り見たのですが「もういいや」でした。

ここは、遊園地のオマケであって、水族館を目的に来るところではないのだろう、というのが我が家の結論です。

人がもう少し少なければなあ。

 

大洗のアクアワールドができる前に何度も行ったのが、静岡県清水の三保にある東海大学海洋科学博物館です。

入ってすぐのタツノオトシゴ各種は、何回行ってもいいです。

ここの面白いところは、あくまで「海洋博物館」ですので、海そのものに関する展示が多いところですね。

地震から津波が発生するまでの水の動きは、ここで初めて理解しました。

 

また、すぐ隣には人体博物館もあって、ここでしか無い展示が必見だったのですが、何年か前に無くなってしまいました。

あと、同じ敷地内では、ヘラヤガラとかクマノミとかの変な「鯉のぼり」が上がっています。

 

三重の鳥羽水族館には一度だけ行きました。

(子供の頃に連れていってもらったのは除く)

ここは、でかいです。

アクアワールドができる前だったので、なおさら感激しました。

 

ここにはスナメリ、ジュゴン、マナティがいます。

最近では、「絶食を続けるダイオウグソクムシ」でも有名になりました。

全体的に子供向けじゃない雰囲気の水族館です。

 

今年の夏は、沼津の深海水族館に、ダイオウグソクムシを見に行きました。

ずっと前から、目黒寄生虫館と並んで行きたかった場所です。

規模は小さいものの、国内唯一のシーラカンス標本など、なかなか良かったです。

 

愛知県蒲郡の竹島水族館というところもとても小さいのですが、巨大なタカアシガニが水槽みっちりに詰まっているという光景は、絶対にここでしか見られません。

タイミングが合えば、

「オオグソクムシやタカアシガニを触れるタッチプール」

というすごいものもあるとか。

以前は、アカウミガメやアオウミガメも普通に触れるところを泳いでいたのですが、今はどうでしょう。

しかもここ、入館料は大人500円です。

一体どうなっているのでしょう。

ただ、建物は超古いです。

 

大阪の海遊館には、ただジンベエザメを見るだけのために、宿を取って泊まりがけで行きました。

当時、ジンベエザメが見られるのは、海遊館以外では沖縄の美ら海水族館だけだったのです。

 

海遊館という施設自体、

「巨大水槽を覆うために建物を作ったら八階建てになっちゃった」

という構造で、よくある大水槽のレベルを超えています。

そこまで巨大な水槽ですので、5メートルクラスのジンベエザメが2頭入っても、余裕で泳げちゃうわけです。

 

と称えても、沖縄美ら海水族館はもっとでっかいらしいですね。

水槽の深さは10メートルだとか。

水族館オタクとしては、いつか一度は行かないといけない聖地です。

 

それだけ好きな水族館ですが、ここ数年は、本当に滅多に行かなくなってしまいました。

 

というのもですね、

子供がですね、

水族館に行こうといってもですね、

「水族館?飽きた」ということになってしまってですね、

うん。

 

学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義


※2018.05追記

犬吠埼マリンパークは、2018年1月で閉館となってしまったそうです。

この水族館は全体的に狭いため、イルカショウの水槽と客席が非常に近くて、普通ではありえない近さでイルカが飛ぶという面白い所でした。

そういった意味での「迫力」です。

 

古い水族館でしたので、施設の老朽化に伴う閉館ということです。