2018年7月

あすなろ126 朝鮮出兵(過去記事)

あすなろ

 

 

 

2012.04号

 

前回に引き続き、ウチの三歳児の本「ビジュアル版戦国武将大百科」からのネタです。

 

「合戦編」に、豊臣秀吉の朝鮮出兵についての記述がありました。

秀吉の朝鮮出兵は、2回ありまして、1回目は文禄の役、2回目は慶長の役と呼ばれています。

 

で、その本によると、まず文禄の役は、

 

「当初、朝鮮側は戦の準備ができておらず、」

 

慶長の役では、

 

「文禄の役では平壌にまで進出した日本軍が、慶長の役では漢城の手前で足止めされてしまったのだ」

 

と書いてあるわけですが、んーと、残念ながら、ちょっと違うんですよねー。

 

子供向けの本にいちいち目くじらを立てるのもどうかしているとは思いますが、これでは日本軍の負け戦みたいで大変不本意ですので、あえてこの場をお借りしたつっこみを入れてみようと思います。

 

朝鮮に進軍する前に、秀吉は何度も服属せよとの警告を発していました。

その後、拒絶する様子を見て、進撃拠点となる名護屋城を建造しています。

そしてそれを見ていた朝鮮側も、北方に配備していた軍を日本側に配備して、水軍も半島南端に集めています。

さらに、宗主国の明に対して

「沿岸守将に対して厳重警戒を下命しました。

日本から侵犯を受ければ撃滅いたします」

という使節を送っています。

つまり、戦の準備は十分にできていたのです。

 

しかし朝鮮軍は、日本軍が上陸してからは連戦連敗で、敗走を続けるのみでした。

その理由としては、

 

・歴史的に朝鮮は、歴代の中国王朝の属国となることで生き延びてきたために、大きな対外戦争が長い間起こっていなかった

 

・文化的にも「体を動かすのは身分の低い者のすること」という考えがあるので、役人は兵を蔑み、軍の訓練をするにも指導者がいなかった

 

・前項と同じ理由により、職人が育たなかったので工業が全く発達せず、あらゆる武器の性能が非常に低く、鉄砲もろくに持っていなかった

 

という朝鮮に、

 

・日本では職人技をもつ技術者が多かった

 

・そのために鉄砲の命中精度および威力はオリジナルのポルトガル製を超えていて、さらに大量生産によって、当時は世界一の鉄砲保有国だった

 

・同じ理由により、日本刀も世界の他地域の剣に比べて抜群に高性能で、輸出されるほどだった

 

・日本は長く戦国時代であったために、兵は実戦で鍛え上げられた者ばかりの上、高度な戦術も数多く持っていた

 

・遠征隊の一部兵士にとっては、元寇の際に朝鮮人が対馬で行った虐殺の恨みを晴らす、という意味合いもあった

 

というような軍が大量に攻め込んで行くわけですから、そりゃ勝ちますわな。

 

釜山に上陸した日本軍は朝鮮軍の城を次々と陥落させて、文字通り破竹の勢いで北上して行き、上陸からたった二十日余りで、首都である漢城をあっさりと陥落させます。

 

ちなみに、上陸地点の釜山から漢城までは、およそ500キロ。

江戸時代、東海道五十三次の500キロは、通常15日ほどで旅をしたと言われています。

さらに、江戸時代に朝鮮半島に旅をした西洋人の記録によれば、朝鮮半島はどこも山がちで、ろくな道がないとされています。

そこを鎧と武器でフル装備した兵士が進んだことを考えると、朝鮮軍の抵抗はほとんど無いようなものだったと考えてもいいでしょう。

 

漢城にいた朝鮮王は、近づいてくる日本軍の報を受けて、さっさと逃亡してしまいます。

その家臣はといえば、王宮の家畜を盗んで、王よりも先に逃亡しています。

そしてそれを見た住民が、王宮に対して放火と略奪をした為に、日本軍が到着したころには廃墟があるだけでした。

 

なお、朝鮮の被支配層はそれまで、働くことがバカバカしくなる程の搾取を受けていたのですが、秀吉は軍に対して

「占領地における放火の禁止、民衆の殺戮や捕獲の禁止、飢餓に陥った民衆を救済すべきこと」

などを命じています。

ですから日本軍は、朝鮮住民にとって解放軍に見えたようです。

漢城に到達する頃には、軍の半分くらいが朝鮮の民衆だったという記録も残っています。

 

日本軍はさらに北進、平壌まで到達しました。

ここで和平を呼びかけますが、朝鮮軍が応じないために、平壌を陥落させます。

その後、明へ逃げ延びた王の依頼を受けて明軍が到着しますが、一度は日本軍が撃退します。

 

しかし明軍が城の食料庫に火を放ったために、日本軍は漢城まで退却します。

その漢城付近の食糧倉庫も焼かれてしまったので、日本軍は明軍と和平交渉を始め、釜山まで引き上げました。

ただし、平壌から漢城へ戻る会戦では、日本軍は明軍に大勝しています。

 

文禄の役が失敗したのは、食料などが奥地まで十分に運べなかったのが主要因でした。

陸路は道が悪く、海路も船が小さかった為に、朝鮮水軍の妨害を突破できませんでした。

 

そこで、続く慶長の役では、大型船を用意して朝鮮水軍をほぼ壊滅させています。

よく聞く「李舜臣将軍」はこれ以降、日本水軍にろくに手を出せなくなります。

また日本軍は、南部に留まり、「ヒットアンドアウェイ」で敵軍の消耗をさせて、その後一気に進攻するという作戦に変えたようです。

 

この方針は、秀吉が出した命令書からも見ることができます。

つまり日本軍は「足止め」されたわけではなくて、敢えて進まなかったのです。

敵軍の将が、日本軍の追撃が無いことを罠ではないかと疑ったという記録も残っています。

その後も日本軍は、攻めて引き上げ、攻められて撃退、を繰り返します。

 

ただ一度だけ、建築中で食料を運び込む前の城を攻められたときに、食糧難で危なかったことがありました。

しかし援軍の到着によって撃退に成功。

さらに追撃によって数多くの敵兵を討ち取り、最終的には日本軍の損害が1100人に対して、明・朝鮮軍の損害は20000人という圧勝でした。

 

その後の会戦でも、

「日本軍13000人対敵軍55000人の戦いにおける日本の損害がほとんど無し」

とか、

「島津隊7000人が30000人の敵兵を討ち取る」

とか、ほぼ無敵状態でした。

最後は明軍は、遠巻きに眺めるしかなかったと書かれています。

 

その後、秀吉の死去によって日本軍は撤退するのですが、それでも豊臣家にはまだ十分な資金が残っていました。

最強ですね。

 

一方、明は、朝鮮派兵による消耗によって、滅亡への道を辿ることとなるのでした。

 

学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義

あすなろ105 イースター島(過去記事)

あすなろ

 

 

 

2010.07号

 

ここに以前(No.101_2010/03)書いたとおり、「霊が見える」などと言う嘘つき野郎は大嫌いですが、「古代文明の謎」などの「超科学」は、かなり好きです。

この手の話は、基本的には人に迷惑をかけませんからね。

 

ただ、たまーに「我々はかつて世界を支配した優秀な民族」「人類の発祥の地は我が国」などと、どう考えてもあり得ない話を始める困った国民もいますけど、こういうのは超科学とはいいません。

(どことはいいませんけど、こっちの方に度々ミサイルを撃ってくる独裁国と、そのすぐ南にある国のことです)

 

そして今、中二の英語に、イースター島だのモアイだのが出てきてしまいましたので、ついモアイの話をすることにします。

 

イースター島といえばモアイ、モアイといえばイースター島。

イメージ的には、いかにも謎の古代遺跡という匂いをプンプンさせていて、ナスカの地上絵やストーンヘンジなどと同列に語られることが多いのですが、実はそんなに「古代」のものではありません。

モアイ信仰は、10世紀くらいから17世紀あたりまでと言われていますから、日本で言ったら鎌倉から江戸時代初期までですね。

 

イースター島は、よく「絶海の孤島」と呼ばれるとおり、周りに全く他の島がありません。

一番近い隣の島まで400㎞以上、人が住む島までは2000㎞も離れています。

ですから、他の島との交流はほとんど無かったことでしょう。

周囲は海だけですから、耕作する他に、木で削りだしたカヌーで漁をして暮らしていました。

また、人種的・文化的には、ポリネシア文化圏だとされています。

 

……という所まで書いて、念のために調べていたら気づいたのですが、ポリネシアという言葉は、中学生用の地図帳には載ってないんですね。

一般用語ではないのでしょうか。

 

ポリネシアとは、ハワイとニュージーランドを結んだ線よりも東側一帯に広がる島々のことです。

ハワイ、ニュージーランド、イースター島を結んだ三角形が、おおよその位置と考えてもいいそうです。

マゼランやクックの航海の話を読むと、必ずポリネシアという言葉が登場しますので、知っていてもいいと思います。

 


ポリネシアン・トライアングル
ポリネシア文化圏を表す指標
東端の「ラパ・ヌイ」がイースター島


 

モアイは、そんなポリネシアの祖先信仰の対象として生まれました。

この島からは、凝灰岩(ぎょうかいがん)が多数産出します。

凝灰岩は、原始的な道具でも加工が容易であるため、これを切り出して作られました。

 

最初期のモアイは、全身の座像で下半身もちゃんと作られています。

しかし、それが何百年も経つうちに、下半身が省略され、顔が強調され、いわゆるモアイの姿に変わっていきます。

 


初期のモアイ

足まで作られている



上:中期のモアイ 下:後期のモアイ

長い顔、深い眼窩、長い鼻、長い耳などが特徴


 

作られたモアイは、村の周囲の祭壇の上に、村に向けて立てられていました。

モアイが立てられた祭壇の下からは、近年、多数の人骨が発見されていて、モアイは墓標の一種ではないかという説が有力になっているそうです。

 

モアイは山で切り出され、村の周囲まで運ばれました。

さらに、高い祭壇の上に乗せられたわけですが、それは20tから80tもある石の塊です。

その高さは、平均的なものでも3mを超え、ものによっては7m級のものもあります。

これをどうやって運んで立てたのか、それには未だに諸説があります。

 

一般的には、木でソリを作って斜面を滑らせた、という説があります。

また、モアイは山から歩いてきたという島の伝承からヒントを得て、直立させた状態で運んだのではないか、という仮説も立てられています。

 

イースター島の地層を調べていくと、かつては椰子(ヤシ)の大木に覆われた島だったことがわかっています。

しかし、現在では草原が広がるばかりで、大木など一本も生えていません。

これは、人口増加とモアイ製造によって森林が乱伐され、全て使い尽くされてしまったためと言われています。

 

大木を失ってからは船が作れず、釣り道具すらままならず、最後は燃料にも事欠いて、一説によると食人をするところまで追い込まれていたようです。

 

そうなると、モアイを作って平和に暮らすどころではありません。

限られた耕作地や漁場を巡って、島内では争いが絶えなくなり、敵対する村のモアイ像を倒し合う「モアイ倒し戦争」が起こります。

 

1722年、オランダ人が西洋人として最初にイースター島に上陸したときには、1000体を超えるモアイがあり、島民は祈りを捧げていました。

1744年、イギリス人冒険家クックは、数々の破壊されたり倒されたりしたモアイを見ていますが、まだ半数ほどは立っていたそうです。

そして伝承によると、1840年、最後のモアイが倒されました。

 

同じ頃、ペルー政府によって住民が奴隷として連れ出されたり、同時に天然痘が外部から持ち込まれたりして、島民の数はさらに激減します。

1872年には、わずか111人(田舎の小学校1つ分)にまで減っていました。

 

現在の住民は、タヒチへの奴隷狩りから帰ってきた人達の子孫であるため、現在では当時ここで話されていた言語すらわかりません。

かつては独自の文字も木材に書かれたいたようですが、そのほとんどが燃料や釣り道具として消耗されて、今では解読不能です。

 

こうして、一つの文化が断絶しました。

この島には、こんな壮絶な歴史があるのです。

 

ところで、倒されたモアイは、1990年代まで全てそのままでした。

しかし、日本のクレーンメーカーであるタダノが、クレーンを持ち込んでモアイの引き起こしや修復をして、使用済みクレーンを寄贈しています。

 

ありがとうタダノ。

ありがとう日本の人。

 

学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義

あすなろ101 邪気眼(過去記事)

あすなろ

 

 

 

2010.03号

 

今回は、「面白ネタ」です。

いつもとは違って、全く役に立たない話です。

 

(引用文はネット書き込みからコピー・原文ママ)

 

「中二病」という言葉があります。

タレントの伊集院光が作った言葉らしいのですが、主に思春期の男子が、聞きかじった知識で

「みんな世の中が悪い」

「大人は汚いし、何もわかっちゃいない」

などと自分に酔ってしまう現象のことを指します。

それが「発症」するのが中二くらいだから、ということで、そのネーミングセンスには感心します。

 

確かにこのくらいの年頃は、自分が周囲の友人よりも、一歩先に進んでいることを主張したがるものです。

ワルを気取るのもその一つですし、逆に妙にインテリぶったり、むやみに大人に反抗したりします。

他にもなんか、無闇にかっこつけちゃったりとか。

 

中二病という言葉が流行しだしてからは、女子用に「小六病」という言葉も生まれました。

中二から発症する男子に対し、女子は小六から始まるらしいです。

確かにそうかも。

 

私も例外に漏れず、そういう時期を過ごしたこともありました。

私の場合は、親にあまり反抗しなかった代わりに、学校や教師関係にはかなり反抗していました。

お陰で教師には嫌われていましたので、通知票は燦々(さんさん)たるものでしたが。

 

と、ここまでは、「普通の」反抗期です。

しかし、これを変にこじらせると、ひどいことになる場合もあります。

 

それが、「邪気眼」です。

 

 


中学の頃カッコいいと思って、怪我もして無いのに腕に包帯巻いて、突然腕を押さえて

「っぐわ!・・・くそ!・・・また暴れだしやがった・・・」

とか言いながら息をを荒げて

「奴等がまた近づいて来たみたいだな・・・」なんて言ってた

クラスメイトに「何してんの?」と聞かれると

「っふ・・・・邪気眼(自分で作った設定で俺の持ってる第三の目)を持たぬ物にはわからんだろう・・・」

と言いながら人気の無いところに消えていく

テスト中、静まり返った教室の中で

「うっ・・・こんな時にまで・・・しつこい奴等だ」

と言って教室飛び出した時のこと思い返すと死にたくなる

柔道の授業で試合してて腕を痛そうに押さえ相手に

「が・・・あ・・・離れろ・・・死にたくなかったら早く俺から離れろ!!」

とかもやった体育の先生も俺がどういう生徒が知ってたらしくその試合はノーコンテストで終了

毎日こんな感じだった

でもやっぱりそんな痛いキャラだとヤンキーグループに

「邪気眼見せろよ!邪気眼!」とか言われても

「・・・ふん・・・小うるさい奴等だ・・・失せな」

とか言ってヤンキー逆上させてスリーパーホールドくらったりしてた、そういう時は何時も腕を痛がる動作で

「貴様ら・・・許さん・・・」

って一瞬何かが取り付いたふりして

「っは・・・し、静まれ・・・俺の腕よ・・・怒りを静めろ!!」

と言って腕を思いっきり押さえてた

そうやって時間稼ぎして休み時間が終わるのを待った

授業と授業の間の短い休み時間ならともかく、昼休みに絡まれると悪夢だった


 

 

……はい、これが邪気眼です。

 

同じような、女子の例もありますよ。

 

 


中学生の頃、妹は二重人格だった。

なんでも、火を見ると「影羅(エイラ)」という魔族の人格が現れるそうで、真っ暗な部屋の中で唐突にマッチを擦っては、

「……ヘヘ、久しぶりに外に出られた。この小娘は意思が強すぎて困るぜ(笑)」

などと乱暴な口調で叫んだりしていた。

ある日、夕食の時に「影羅」が出たことがある。突然おかずの春巻きを手掴みでムシャムシャと食べ始めて、

「久々の飯だぜ(笑)」と言った。

食べ物関係のジョークを一切許さない母が、影羅の頭にゲンコツ振り落とすと影羅は涙目になっておとなしくなった。

それ以来、食事時に影羅が出たことは無い。

そして別人格とやらは、妹が高校に入った辺りでパタリと出なくなった。

最近になって、大学生になった妹にその頃のことを尋ねたら、クッションに顔を埋めて、手足をバタバタさせてのた打ち回っていた。


 

 

もちろん、ここまでくると極端な例でしょう。

しかし、こんなのはどうでしょう。

 

 


有りがちだが、小学校の頃霊感少女を気取っていた。

小学校3、4年の頃だったと思う。

写生の授業で屋上に行くことになると「頭が痛い…ここは悲しい気持ちで溢れてる…」と今にも泣きそうな振りをしたり 図書室が閉められたあとに、友達と下校中に

「あれ?図書室から誰か見てる。何組の子かな」と誰もいない窓を指差し友達をビビらせたり

そして幼なじみも「見える」と言い始め、二人で「悪霊からみんなを守ろう」なんて話をして盛り上がっていた。

(中略)

中学にあがって別の学校に進学した当時の同級生と塾で再会し、

「あんた、幽霊が見えるとか言ってたよねー」

とみんなの前で暴露された。

咄嗟に「あれは幼なじみに話し合わせてただけだよ」

と、幼なじみにぬれぎぬを着せた。


 

 

そうそう、こういう子って時々いますよね。私の同級生も、コックリさんなんてやってましたけど、今、その当時の事を尋ねたら、なんと答えるでしょうか。

 

 


中2の頃まさに中2病だった

霊感があると気取ってクラスメイトの守護霊を占った。

勿論デタラメ。

その子のイメージから適当に

「中世の貴族」「平安の貴族」「ピエロ」など

ふと教室の隅を見つめて「あそこに邪悪な何かがいる…」

授業中にまわってきた遊びの誘いの手紙にも

「今日は雨だから…エナジーが…ウッ(←漫画の効果音みたいな書き文字)」

小さな巾着に透明のビー玉を入れ「銀水晶」と称して持ち歩き、休み時間ごとにトイレで読経

でも閉めは「ジーザスッ!!!」

やがて自分と同じように霊感を主張する子が現れてお互いの霊に関する解釈の違いで衝突、敗北してやっと目が覚めた

怖いのは、抜けるまでは本気で霊感がある気になっていたことだ…


 

 

さて、ここで注目すべきは、最後の文です。

 

本当に「霊感がある気になっていた」ということは、この「衝突」が無ければ、大人になってもそのままだった可能性があります。

そしてそのまま、いい歳になってもまだ中二病のままで覚めない人が、実際にいます。

 

私は、三番目の子供を生後5日で亡くしました。

で、それをどこからか聞いたカミサンの患者さんが、ウチの上の子を見て、したり顔で

「亡くなったお子さんは、お兄ちゃんと一緒に遊んでいるよ」

と言ったそうです。

 

こういうの、マジで殺意が湧きます。

てめえ、うちの子の顔も名前も知らねえ癖に、何言ってやがるんだ。

何が「見えるのよ」だ。

 

Mixiで知ったAさんは、小学生の子供を水の事故で亡くしたそうですが、それを知ったある人に、

「子供が寒がっているから、何か温かいものをお供えして」

などと、ほざかれたそうです。

 

実は、その亡くなった子はアイスが大好きで、その当日もアイスをもっと食べたがったのを途中でやめさせたのが最後で、

「もっと食べさせてあげれば良かった」と悔やんで悔やんで悲しんでいるところへ、これですから。

 

Aさんは激怒していましたよ。

当然です。

 

こういうのは、「見える」などと虚言を吐いている本人は満足でしょうが、聞かされる周りは、非常に迷惑しています。

子供みたいに叱りとばす訳にもいきませんし。

ここまで来ちゃうと、死ぬまで直らないのでしょうか。

 

あと、美輪某って奴は、スマップの中居に「ピカソの生まれかわりだ」と言ったけど、ピカソが死んだのは中居の誕生後だし、江原某は、川崎カイヤの守護霊は父親と言って、「まだ生きている」とつっこまれているし、こいつらの生き方は、振り込め詐欺と同じ嘘まみれ人生です。

人間のクズですね。

 

ただし、「超科学」まで行くと、面白ネタとしては好きですよ。

ピラミッドの謎とか。

 

ちなみに、オカルト雑誌「ムー」の現編集長は、筑波大ワンゲルの2こ上の先輩です。

 

学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義

 

関連記事:

あすなろ186「霊が見えてしまったら」

あすなろ119 エアコン(過去記事)

あすなろ

 

 

 

2011.09号

 

7~8年前のこと、大学時代の同級生が、子供を連れて私の家に遊びに来ました。

 

確かあれは、夏の日のことでした。

我が家に入って最初に、友達の娘(5歳くらい)が

 

「えあこんをつけてください」

 

と言ったので、

 

「えあこんはありません。ごめんね」

 

と答えたところ、固まってしまいました。

 

あれは本当に、見事な「二の句が継げない」状態でした。

とても面白かったです。

 

そんなわけで、相変わらずエアコン無しの家に住んでいる朝倉ですが、塾ではガンガン使っています。

塾は自宅と違って「都会」ですので、窓を開けると排気ガスのにおいが入ってきますからね。

 

ウチと違って都会暮らしの皆様のことですから、今年の夏もエアコン様にお世話になったことでしょう。

 

エアコンは、中学社会の歴史では「3C」の1つ「クーラー」であると習うはずですが、クーラーとエアコンは、厳密にはちょっと違います。

冷房機能しかついていないのがクーラーで、冷暖房がついているのがエアコンです。

ただし、エアコンの暖房機能は、冷房機能を「逆」に使っているだけですので、根本的な理論は変わりません。

また、冷蔵庫も基本的な原理は同じです。

 

その理屈は、中学校の理科+αのレベルで理解できるものです。

そんな話をしましょう。

 

ただし、その原理を理解する為に、必要な知識がいくつかありますので、予習しておきましょう。

 


基礎知識その1。

 

ものの温度は、そのものが持つ熱の量で決まります。

熱をたくさん持っていると温度が上がり、熱の量が減ると温度が下がります。

……こう書くと当たり前のことのようですが、ポイントは、冷たいものにも熱は含まれているという点です。

冷たいものは、持っている熱が少ないだけで、熱がない、というわけではないのです。

 

基礎知識その2

 

気体を圧縮すると、温度が上がります。

逆に、気体を膨張させると、温度は下がります。

しかしそのとき、例えば1リットルの空気を圧縮して温度を上げても、それをまた元の1リットルの大きさに戻すと、理論上は元の温度に戻ります。

(エネルギー保存の法則です)

 

基礎知識その3

 

気体と液体では、同じ温度でも、持っている熱の量が全く違います。

気体の方が液体よりも多くの熱を持っていますので、液体を気体にする為には、多くの熱が必要となります。

逆に、気体を液体にすると、熱が余ります。

余った熱は、周りに放出されます。

 

基礎知識その4

 

気体を圧縮していくと、最後は液体になります。

逆に、液体を無理矢理膨張させると、気体になってしまいます。


 

以上4つの知識を得たところで、冷たくする理屈の説明を始めます。

 

まずここに、冷媒と呼ばれる気体があります。

これにぎゅうっと圧力をかけて、液体にしてみましょう。

すると、余った熱が出てきて、熱い液体が出来ます。

 

この熱い液体から圧力を抜いただけでは、また最初と同じ温度の気体になります。

持っている熱の量が、最初と同じだからです。

 

しかし、この熱い液体に外から風を当てて、冷ましてしまいます。

すると、持っていた熱が風に持って行かれて、熱の量が最初よりも少なくなってしまいます。

 

そうやって冷ました液体を、今度は無理矢理膨張させて、気体にします。

すると今度は、さっき熱を奪われた分だけ熱が足りなくなるので、最初に比べて熱の不足した状態になります。

つまり、温度の低い気体となります。

 

これに暖かい風を当てると、こんどは当たった風の熱が奪われて、風が冷たくなります。

もちろん、温度の下がった気体(冷媒)は、風から奪った熱で温度が上がります。

 

ここで、以上の流れを、冷媒の動きから、


1. 気体の冷媒に圧力をかけて液体にする

2. 熱くなった液体の冷媒に風を当てて熱を放出する(冷ます)

3. 液体の冷媒を膨張させて気体にする

4. 気体の冷媒に風を当てて熱を取り込み、温度を上げる(周りを冷やす)


 

と、4つの行程に分類しましょう。

 

エアコンの場合、1. の気体を圧縮する場所は、室外機の中にあります。

室外機というのはですね、エアコンが動くと、家の外でうおーんってプロペラが回っている所がありますよね。

それです。

それの中に、気体を圧縮するコンプレッサが入っていて、気体を液体に変えます。

 

そして、そのうおーんのプロペラで、2. の行程をします。

つまり外のプロペラは、圧縮して熱くなった液体を冷ましていたのです。

 

冷めた液体は、パイプを通って室内の送風機(エアコン本体)へと流れてきます。

そしてその本体の中で、3. の膨張を行います。

具体的には、その冷めた液体をブーっと吹き付けて、霧の状態にしながら広げるみたいですね。

もちろんこれは、機械の中での話です。

 

そうすると膨張させられた気体はすんごく冷えていますので、それに室内の風を当てると冷たい空気が出る、というわけです。

これが4. です。

 

このあと、気体となった冷媒は、パイプを通って室外機に行って、また圧縮されることになります。

 

ここで念のために書くと、室内外を移動しているのは液体や気体になった冷媒だけであって、空気は移動していません。

 

熱の移動という点から見ると、4. で室内の熱を取り込んだ冷媒は、室外機の2. で、外の空気に熱を奪われていきます。

つまり、室内の熱を屋外に運び出しているのが、冷房の仕組みなのです。

 

エアコンを暖房に切り替えた時には、これと逆の流れを作ります。

 

つまり、室外機のプロペラで4. をおこない、室内の本体の送風で2. をおこないます。

こうすることで今度は、屋外から集めた熱を、室内に取り込むことができます。

寒い冬の屋外から熱を集めるとは変な気がしますが、基礎知識その1、冷たいものにも熱は含まれています。

外は寒くても、熱が入っているのです。

 

エアコンの暖房は結局、熱を運搬しているだけですので、電力を直接熱に変えているわけではありません。

ですから、電気のファンヒーターよりも、電力効率は良くなります。

 

ところで先にも書きましたが、冷蔵庫も、エアコンと同じ仕組みで冷やしています。

ですから冷蔵庫を開けておいても、室内は全く涼しくなりません。

 

さて何故でしょう?

説明できますか?

 

学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義

あすなろ121 縄文文化と稲作伝来(過去記事)

あすなろ

 

 

 

2011.11号

 

ご飯が好きだ。

 

炊きたてなら、ご飯をおかずにご飯が食べられるくらい好きだ。

 

私は、世界で一番味にうるさい民族が日本人だと思っています。

そしてその味覚の元となっているのは、米食でしょう。

 

稲の原産は、中国大陸と言われています。

以前は、インドから長江上流域が原産だと言われていたのですが、最近は、長江中流から下流域が発祥の地とされているみたいです。

 

日本に最初に稲が伝わったのは、縄文時代の終わり頃です。

しかし、最初の頃に栽培していたのは、水田を使わないで畑に植える陸稲(りくとう)でした。

 

当時、すでに大陸では水田を使った稲の栽培が始まっていましたが、縄文人はこれをあえて選択しなかったようです。

 

水田による稲作は、田植えから水の管理までと、大変な手間がかかります。

しかしその当時、日本は温暖で豊かでした。

縄文人は、わざわざそんな手間暇をかけなくても、食料に困ってはいなかったのです。

ただ、陸稲は栽培が簡単だったので、一応植えてはいたようです。

 

ところで、縄文人という名称から、どんな人たちをイメージするでしょうか。

 

私の場合は少し前まで、ウホウホ言っている未開人というイメージでした。

歴史の教科書では、ネアンデルタール人とかなんとかの次に書かれてますから、しょうがないですよね。

しかし実際には、それなりに高度な文明を持っていたようです。

 

青森県に、三内丸山遺跡という、縄文時代の集落跡があります。

中学一年で習うと思いますが、教科書にはどのくらい詳しく載っているのでしょうか。

 

 

実はこれ、遺跡の存在自体は江戸時代から知られていたようですが、本格的な発掘は、1992年にようやく始まっています。

というわけで、私の時代には、この遺跡については習わなかったのです。

 

当時は遺跡といえば、弥生時代の登呂遺跡くらいしか載っていませんでした。

縄文時代のものといえば、せいぜい貝塚程度しか見つかっていなかったはずです。

ですから、最近この遺跡の詳細を知って、ちょっとびっくりしているところです。

 

縄文時代と一口に言ってしまっても、その期間は相当広いです。

数字で言うと、16500年前(紀元前145世紀)から3000年前(紀元前10世紀)となっていますので、えーと、1万3000年余りありますね。

その後の日本の歴史に比べて、すごくアバウトな分け方です。

 

縄文時代の前は旧石器時代で、縄文後は弥生時代です。

その境界となる目安は、土器と竪穴式住居が登場してから、水田における稲作が始まるまで、とされています。

 

そして先に挙げた三内丸山遺跡は、5500年前から4000年前となっています。

縄文時代の中では後半の方で、末期とまではいかないくらいの時代です。

 

縄文時代のことですから、麦や稲の栽培はもちろん始まっていません。

しかしこの遺跡の周辺では、どうやら栗の木が栽培されていたらしいのです。

さらに、マメ、ゴボウ、ヒョウタンなどの栽培植物が出土するところから、一年草も育てていた可能性もあるようです。

食用の一年草とはつまり、今でいうところの野菜ですね。

 

また、この「村」には、数百人が暮らしていたということになっています。

これ、田舎の子供会の区域よりも大規模ですね。

 

でもそれよりも凄いのは、測量技術です。

 

ここで見つかった「六本柱建物跡」は、六ヶ所の柱の穴の間隔が全て4.2メートル、幅と深さはは全て2メートルで統一されているそうです。

もちろん、穴は長方形に並んでいます。

つまり、長さを統一することに加えて、少なくとも直角を作る方法があったということになります。

 

 

直角を作る技術でよく出されるのが、エジプトのピラミッドです。

こちらは、3:4:5の直角三角形を作って直角を出した、とされています。

で、最初のピラミッドは紀元前27世紀とされていますので、単純計算で4700年前です。

ということは、この三内丸山遺跡と同時代になります。

となると、エジプトと同じような技術が日本にあっても、不思議は無いんですよね。

 

また、他の地域では、35センチという長さを基準にした遺跡があるということです。

で、先に挙げた4.2メートルという長さは、35センチのちょうど12倍です。

もしかしたら、この時代独自の統一基準でもあったのかもしれない、と言われています。

 

というわけで、日本にもそれなりに「古代文明」があった可能性が高いのです。

また、日本列島を通じて同じような土器や石器が発掘されていますので、南北の交流もそこそこあったようです。

 

そうやって繁栄した縄文文化も、ある時から終焉に向かいます。

それは、地球の寒冷化によるものです。

 

縄文時代の中期は、現在よりも温暖な時代でした。

しかし、約5000年前から徐々に下がってきた気温は、3000年前には東日本から栗の木を消し去り、漁業に壊滅的な打撃を与えるほどになります。

 

最盛期には全国で16万ほどもいた縄文人は、この寒冷化によって半分以下にまで減ってしまいます。

特に東日本では、人口減が大きかったようです。

 

一方、西日本では、寒冷化の影響をさほど受けませんでした。

しかしこのころ、西日本の人口は、急激に増加しています。

つまり、東日本の縄文人が、西日本に移動してきた、というわけです。

 

同じ頃、お隣の大陸でも北方の民族が南下してきて、南方の民族をおびやかし始めていました。

そして南の人たちの一部が、稲作の技術を持って日本に避難してきました。

大陸と日本では、以前から文化交流があったので、日本にたどり着いたのは偶然ではなく、はっきりと目指してきたことでしょう。

 

東からの人の流入で人口密度が高まって、食料増産が急務となった縄文人に、この水稲栽培の技術は渡りに船だったことでしょう。

こうして日本でも本格的な稲作が始まり、弥生時代へと入っていくことになります。

 

なお、大陸では「北方の民族が南下してきて南方の民族をおびやかし始めて」と書きましたが、日本ではこの時代の遺跡に、大規模な戦闘の跡が見つかりません。

世界史的には、食糧難による移民・流民関連では、食料を巡った殺し合いが起こるのが普通です。

しかし日本では起こらなかった……これって、「大災害の時にも列に並ぶ日本人」に通じるものがありませんか?

このころから、日本人はすでに「日本人」だったんだろうなあ、なんて思っています。

 

ところで一方で、

「西日本の人口急増の原因は、大陸人が大量に流入したせいではないか」

「稲作も、縄文人をよそに大陸人だけで作った集落で始められたのではないか」

という考えもあります。

しかし、水田跡から出土される道具類は、農耕機具は大陸式でも、生活用品は縄文式なのです。

そんなところから、

「大陸人も、集落を作れるほどの人数は流入していないだろう」

「水田を作ったのはやはり縄文人だろう」

と考えられているようです。

 

さらに、縄文人が大陸に「留学」して、技術を持ち帰ってきた、という説もあります。

これが本当ならすごいですね。

 

ところで、朝鮮半島最古の水田跡も、日本とちょうど同じ時代のものです。

この遺跡から出土した稲と、現存する稲の遺伝子の比較から、水田は縄文人が大陸から学んで、それを朝鮮半島に伝えた、という説まであります。

稲の遺伝子の種類が、朝鮮半島よりも日本の方が多様なのだそうです。

つまり、日本に伝わった稲の一部だけが朝鮮半島に伝わった、というわけです。

 

 

これが真実なら、それこそ歴史の教科書が変わります。

この説は、NHKでも紹介されて話題になりました。

 

ただ、この根拠となる稲の遺伝子情報は、私が見る限りでは調査が不完全だと思っていますので、今後の続報が待たれるところです。

 

学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義

あすなろ200 日本の歴史と天皇

あすなろ

 

 

 

2018.06号

 

「天皇制」という言葉があるようです。

用例は、「天皇制反対」「天皇制廃止」など。

ここからも分かるとおり、これは日本の天皇が気に入らない人達が使う用語です。

 

と書いてはみましたが、本当は、こういう言葉は日本に存在しません。

いや、存在しないって言われてもここにあるじゃん、と言われるかもしれませんが、でも、無いんです。

 

というのも、日本に天皇がいるのは、制度で定められたわけではないからです。

「天皇制」と言う以上は、きっと「国が定めた天皇という制度」と言いたいんだろうと思いますが、この考え方は根本的に間違っています。

 

国が決めたから天皇がいるのではありません。

日本国の法に従って天皇家があるわけではありません。

 

天皇があるから、日本があるのです。

 

仮に今、天皇が後継も含めて全ていなくなったら、日本国は日本国ではなくなります。

国の名前も、別のものになります。

例えば日本共和国とか。

その後は、現在の政府は一旦全て無くなって、全く新しい政府を建てて、憲法を一から作るところから始まることになるでしょう。

国旗も国歌も国鳥も国花も……全ての物を、一から作り直すことになります。

 

どうしてそんなことになってしまうのかというと、日本国の政治はあくまで、天皇に運営を委任されているものだから、なのです。

だから、依頼主の天皇がいなくなったら、今の政府は存在意義が無くなるのです。

要は、

「本当の政治の頂点は天皇だけど、実際の運営は君らに任せるわ」

というのが、日本の政治なのです。

 

実際に、新しい内閣総理大臣が決まったときには、必ず天皇に任命される「式」が執り行われます。

天皇が、「政治は君に任せた」と示す儀式です。

 

また、年の最初の国会では、天皇が国会議事堂に行って開会宣言をします。

天皇の開会宣言がないと、日本国の政治は始まりません。

国の運営権が天皇にあるからです。

 

すごい国でしょ。

 


こんな話は、これまで何回か授業で話したことがあるので、聞いたことがある生徒もいると思います。


 

さて、日本の歴史だけを見ているとあまり感じないかもしれませんが、国を統治する政府には、時に「正統性」を求められます。

 

例えば今、なんだか怪しい白人がやってきて、「今日からこの国は、ワターシタチが治めマース」とか言われても、「いやお前ら外人だろ」となりますよね。

または、突然首相が撃ち殺されて、撃ったやつが「ついに倒したぞー! 俺が首相だー!」とか叫んでも、普通は誰もそんな奴を首相とは認めませんよね。

なぜかというと、そんな奴らは正統な跡継ぎとして、国民に認められないからです。

 

しかし世界の歴史上では、これまでこんな話が、各地で実際に起こってきました。

 

そんな時の新しい統治者は、そこの国民に認められるように、とにかくがんばって我こそが正しい跡継ぎだという理屈をひねり出します。

これが「正統性」です。

例えばちゅうご……チャイナの歴史がいい例です。


中国地方と区別するには、こんな書き方しかないんですよ。

昔の「支那」という言葉を復活して欲しいです。


 

ご存じの通りチャイナは、王朝が興っては滅ぼされて、を繰り返してきた、「ルール無用」の殺し合いの歴史です。

 

日本も確かに、平安、鎌倉、室町などの転換点では殺し合いをしていますが、ルール無用というわけではありません。

根本的に違うのは、あくまで「天皇の臣下同士の争い」のレベルにとどまっていることです。

 

鎌倉幕府を立てた源頼朝は、「権力は(形の上では)朝廷だが、実務は幕府」という形式を作り上げました。

 

室町幕府を立てた足利尊氏は、時の後醍醐天皇を追放しましたが、殺しはしませんでした。

また、その後に光明天皇を立てて、征夷大将軍に任命してもらっています。

そもそも、征夷大将軍とは、朝廷が定めた役職の1つです。

あくまでも、天皇の臣下だったのです。

 

豊臣秀吉は、日本の歴史上で恐らく最大の財力と軍事力を持った人ですが、最終的に得た位は関白で、やはり天皇の臣下でした。

 

徳川家康はというと、朝廷の書物をひっくり返して、形骸化している「源氏頭」という位を探し出して、それを譲り受けることで秀吉の子よりも高位につくことができました。

やはり、現行ルールの中で、何とかしようとしたわけです。

 

しかし、チャイナの場合は違います。

今の政府がダメだ、となったら軍を編成して、その首都を攻略します。

統治者が逃げ出したら、追いかけて殺します。

我が国の足利尊氏は後醍醐天皇を追放しただけですが、チャイナでは殺します。

 

そしてその後は、全く新しい法律の、全く新しい国を建てるわけです。

それまでのルールは全てぶち壊しが前提ですので、「ルール無用」と呼んだわけです。

 

ともかく、そうやって国を建てるわけですから、国民にも「俺のやっていることは正しい」ということを認めさせる必要が出てきます。

そのために一番簡単なのは、「俺は天に認められて国を建てたのだ」説を作ることです。

そしてもう一つ必要なのが、「これまでの国の正統な後継者である」という理屈です。

これが正統性です。

 

チャイナでは、新しい王朝が建つ度に、直前の王朝の歴史を編纂しています。

前王朝の跡継ぎを自称する以上は、「先代」がどうやって興って、どう栄えて、しかしどこから間違えて滅んだのか、誰もが確認できるように作り上げる必要があるのです。

 

そして、その書物こそが、その王朝の基本資料となります。

聖典と言ってしまってもいいかもしれません。

「この通りわが王朝はここに正しく存在するのだ」と、国民に認めさせるのです。

 

日本に話を戻します。

 

日本でも、古墳時代まで遡れば、各地の豪族がそれぞれ「王国」を作っていました。

これを武力もしくは話し合いで各地を制覇していったのが、今で言うところの天皇家率いる大和朝廷でした。

 

大和朝廷も、自らの系譜を度々まとめていたようです。

620年、聖徳太子と蘇我馬子の指示で「天皇記」と「国記」が編纂されました。

681年にも「帝紀」と「旧辞」が編纂されています。

(※ 以上の書物は現存していません)

 

そして、この4つの書物を基にして、天皇家の正統性を確認するためにまとめられた書物が、720年に作成された日本書紀です。

 

何に対して正統性を主張するかと言えば、神です。

先に書いた、「天に認められて国を建てた」説ですね。

 

日本書紀とほぼ同時に編纂された、古事記という書物もありますが、あちらの目的はどちらかというと、これまで伝わってきた歴史の一本化です。

登場する神の名前の書き方からして、個人的には日本各地の神を一本化したかったのではないかと思っています。

 

日本書紀も古事記とほぼ同じストーリーなのですが、日本書紀の方は、初代以降の天皇の話がもう少し詳しくなって、各氏族の話にまで言及されています。

これによって、氏族と天皇の、歴史上の関係を示したかったようです。

 

そしてその日本書紀の記述に従って、天皇と貴族の位が決まり、そのルールのまま、日本の歴史はずっと続いてきています。

基本はずっとそのままです。

 

それから1300年以上経った現在、日本国の政治形態は、やはり日本書紀を基本としています。

 

学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義