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HOME雑記帳(あすなろ)あすなろ121 縄文文化と稲作伝来(過去記事)
2011.11号
ご飯が好きだ。
炊きたてなら、ご飯をおかずにご飯が食べられるくらい好きだ。
私は、世界で一番味にうるさい民族が日本人だと思っています。
そしてその味覚の元となっているのは、米食でしょう。
稲の原産は、中国大陸と言われています。
以前は、インドから長江上流域が原産だと言われていたのですが、最近は、長江中流から下流域が発祥の地とされているみたいです。
日本に最初に稲が伝わったのは、縄文時代の終わり頃です。
しかし、最初の頃に栽培していたのは、水田を使わないで畑に植える陸稲(りくとう)でした。
当時、すでに大陸では水田を使った稲の栽培が始まっていましたが、縄文人はこれをあえて選択しなかったようです。
水田による稲作は、田植えから水の管理までと、大変な手間がかかります。
しかしその当時、日本は温暖で豊かでした。
縄文人は、わざわざそんな手間暇をかけなくても、食料に困ってはいなかったのです。
ただ、陸稲は栽培が簡単だったので、一応植えてはいたようです。
ところで、縄文人という名称から、どんな人たちをイメージするでしょうか。
私の場合は少し前まで、ウホウホ言っている未開人というイメージでした。
歴史の教科書では、ネアンデルタール人とかなんとかの次に書かれてますから、しょうがないですよね。
しかし実際には、それなりに高度な文明を持っていたようです。
青森県に、三内丸山遺跡という、縄文時代の集落跡があります。
中学一年で習うと思いますが、教科書にはどのくらい詳しく載っているのでしょうか。
実はこれ、遺跡の存在自体は江戸時代から知られていたようですが、本格的な発掘は、1992年にようやく始まっています。
というわけで、私の時代には、この遺跡については習わなかったのです。
当時は遺跡といえば、弥生時代の登呂遺跡くらいしか載っていませんでした。
縄文時代のものといえば、せいぜい貝塚程度しか見つかっていなかったはずです。
ですから、最近この遺跡の詳細を知って、ちょっとびっくりしているところです。
縄文時代と一口に言ってしまっても、その期間は相当広いです。
数字で言うと、16500年前(紀元前145世紀)から3000年前(紀元前10世紀)となっていますので、えーと、1万3000年余りありますね。
その後の日本の歴史に比べて、すごくアバウトな分け方です。
縄文時代の前は旧石器時代で、縄文後は弥生時代です。
その境界となる目安は、土器と竪穴式住居が登場してから、水田における稲作が始まるまで、とされています。
そして先に挙げた三内丸山遺跡は、5500年前から4000年前となっています。
縄文時代の中では後半の方で、末期とまではいかないくらいの時代です。
縄文時代のことですから、麦や稲の栽培はもちろん始まっていません。
しかしこの遺跡の周辺では、どうやら栗の木が栽培されていたらしいのです。
さらに、マメ、ゴボウ、ヒョウタンなどの栽培植物が出土するところから、一年草も育てていた可能性もあるようです。
食用の一年草とはつまり、今でいうところの野菜ですね。
また、この「村」には、数百人が暮らしていたということになっています。
これ、田舎の子供会の区域よりも大規模ですね。
でもそれよりも凄いのは、測量技術です。
ここで見つかった「六本柱建物跡」は、六ヶ所の柱の穴の間隔が全て4.2メートル、幅と深さはは全て2メートルで統一されているそうです。
もちろん、穴は長方形に並んでいます。
つまり、長さを統一することに加えて、少なくとも直角を作る方法があったということになります。
直角を作る技術でよく出されるのが、エジプトのピラミッドです。
こちらは、3:4:5の直角三角形を作って直角を出した、とされています。
で、最初のピラミッドは紀元前27世紀とされていますので、単純計算で4700年前です。
ということは、この三内丸山遺跡と同時代になります。
となると、エジプトと同じような技術が日本にあっても、不思議は無いんですよね。
また、他の地域では、35センチという長さを基準にした遺跡があるということです。
で、先に挙げた4.2メートルという長さは、35センチのちょうど12倍です。
もしかしたら、この時代独自の統一基準でもあったのかもしれない、と言われています。
というわけで、日本にもそれなりに「古代文明」があった可能性が高いのです。
また、日本列島を通じて同じような土器や石器が発掘されていますので、南北の交流もそこそこあったようです。
そうやって繁栄した縄文文化も、ある時から終焉に向かいます。
それは、地球の寒冷化によるものです。
縄文時代の中期は、現在よりも温暖な時代でした。
しかし、約5000年前から徐々に下がってきた気温は、3000年前には東日本から栗の木を消し去り、漁業に壊滅的な打撃を与えるほどになります。
最盛期には全国で16万ほどもいた縄文人は、この寒冷化によって半分以下にまで減ってしまいます。
特に東日本では、人口減が大きかったようです。
一方、西日本では、寒冷化の影響をさほど受けませんでした。
しかしこのころ、西日本の人口は、急激に増加しています。
つまり、東日本の縄文人が、西日本に移動してきた、というわけです。
同じ頃、お隣の大陸でも北方の民族が南下してきて、南方の民族をおびやかし始めていました。
そして南の人たちの一部が、稲作の技術を持って日本に避難してきました。
大陸と日本では、以前から文化交流があったので、日本にたどり着いたのは偶然ではなく、はっきりと目指してきたことでしょう。
東からの人の流入で人口密度が高まって、食料増産が急務となった縄文人に、この水稲栽培の技術は渡りに船だったことでしょう。
こうして日本でも本格的な稲作が始まり、弥生時代へと入っていくことになります。
なお、大陸では「北方の民族が南下してきて南方の民族をおびやかし始めて」と書きましたが、日本ではこの時代の遺跡に、大規模な戦闘の跡が見つかりません。
世界史的には、食糧難による移民・流民関連では、食料を巡った殺し合いが起こるのが普通です。
しかし日本では起こらなかった……これって、「大災害の時にも列に並ぶ日本人」に通じるものがありませんか?
このころから、日本人はすでに「日本人」だったんだろうなあ、なんて思っています。
ところで一方で、
「西日本の人口急増の原因は、大陸人が大量に流入したせいではないか」
「稲作も、縄文人をよそに大陸人だけで作った集落で始められたのではないか」
という考えもあります。
しかし、水田跡から出土される道具類は、農耕機具は大陸式でも、生活用品は縄文式なのです。
そんなところから、
「大陸人も、集落を作れるほどの人数は流入していないだろう」
「水田を作ったのはやはり縄文人だろう」
と考えられているようです。
さらに、縄文人が大陸に「留学」して、技術を持ち帰ってきた、という説もあります。
これが本当ならすごいですね。
ところで、朝鮮半島最古の水田跡も、日本とちょうど同じ時代のものです。
この遺跡から出土した稲と、現存する稲の遺伝子の比較から、水田は縄文人が大陸から学んで、それを朝鮮半島に伝えた、という説まであります。
稲の遺伝子の種類が、朝鮮半島よりも日本の方が多様なのだそうです。
つまり、日本に伝わった稲の一部だけが朝鮮半島に伝わった、というわけです。
これが真実なら、それこそ歴史の教科書が変わります。
この説は、NHKでも紹介されて話題になりました。
ただ、この根拠となる稲の遺伝子情報は、私が見る限りでは調査が不完全だと思っていますので、今後の続報が待たれるところです。
学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義