2019年10月
あすなろ213 デニム・ジーンズ;その2
2019.07号
前回(あすなろ212)の続きを書きます。
まずは、前回のおさらいから。
・ 中3英語の教科書にある
「ヨーロッパからアメリカ経由で伝わり、倉敷で独自の進化を遂げたデニム」
という記述が、ウソっぽい気がして調査開始。
・ 朝倉「デニムってのは染料のことだろ」
→残念。本当は織物の種類のことでしたー。
・ 朝倉「ジーパンは最初キャンバス生地で作ったけど途中から青くしたんだよな」
→残念。本当は最初から青いデニムとキャンバスの二本立てでしたー。
と、まずはここまでです。
……いや、もうちょっと書きますか。
いわゆるジーパンは、ゴールドラッシュ時代のアメリカで、「とにかく丈夫な作業ズボン」として登場しました。
最初に作ったのはリーバイさんという方で、これがリーバイスの始まりです。
てなところでしょうか。
で、そのまま粛々と、ジーパンの歴史の続きを書いていこうかと思ったのですが、前回参考にしていたウェブサイトが見つかりません。
代わりに、リーバイス公式と思われるPDFファイルが見つかりました。
ご丁寧にコピーガード付きですので、恐らくガチです。
前回読んでいたサイトは、どうもご自分で当時の資料をあたって調べまくったようでしたのでかなり信用していたのですが、今回はなんせ公式です。
こっちを信用することにしましょう。
例えば。
ジーパン生みの親の仕立屋さんが、最初にリベット止めを考案した時の話では、前回参照にしていたサイトでは、
「顧客リストを見ると木こりが多かったようだから、恐らく木こりに依頼されて作ったのだろう」
などという書き方がしてあったのですが、リーバイス公式のPDFでは
「注文主は体の大きな木こりで」
と明確に書いてあります。
すごいなあ公式。
でも先月はこのファイルは見つからなかったんですよね。
インターネットの不思議です。
1800年代のリーバイスの広告
股にもリベットがあった。
しかし焚き火に当たっていて股のリベットで火傷をした社員がいたため、廃止された。
んなことはともかく、もう一つ訂正です。
前回、
「初期のジーパンは、生地の種類が『ジーン』と『デニム』の二本立てだった」
なんてことを書いたのですが、これもまた少々違うらしいです。
『キャンバス』と『デニム』が正解だそうです。
また、ジーンズという商品名は、実はもっと以前にリーバイさんが売っていた安物のズボンの名称なのだそうです。
ですから、リーバイさん的にはこの名前では呼んで欲しくなかったらしいのですが、定着しちゃったんだそうで。
生地の話のついでにちょっと。
ネット上ではあちこちに、
「デニムのインディゴには虫除けの効果があったので、炭鉱夫に好まれた」
なんて書かれていますが、これは完全なデマです。
まず、当時のデニムは完全にアメリカ国内製で、染料には天然のインディゴなんてとっくに使われていませんでした。
虫除け云々は、もっと昔のお話です。
さらに、デニムが好まれたのはそんな理由ではなくて、キャンバスよりも着心地が良い上に丈夫だったからです。
とにかくそうやって、作業着としてデビューしたジーンズでしたので、その後も
「こんな職業にも使えます」
「子供服としても長持ち」
という、丈夫で長持ち路線で売っていたのでした。
しかし世界恐慌が終わった1930年代、リーバイスは、ジーンズとカウボーイのイメージを結びつけようという作戦に出ます。
そしてそれを見てか、ハリウッドも、西部劇の量産を始めました。
その結果、西部劇に登場する俳優は、誰もがリーバイスのリベット付き501を履いて馬に乗っているのです。
すると当然、西部劇を見た観客がリーバイスを履き始めるわけです。
ここから、作業着だったジーンズが、ファッションになったのでした。
言ってみれば、コスプレみたいなものです。
これをきっかけとして、リーバイスはファッションアイテムとして流行を始めます。
その次の出来事は、ある大学の中で起こりました。
先輩が後輩に、「1年生は501禁止」と言って優越感にひたろうとするくらい、501が流行したのです。
これが、第二次世界大戦前夜のあたりです。
そして大戦中は、ジーンズの流行はピークに達しました。
「LEVI’S TODAY」=「リーバイス本日入荷」
あまりの人気のため、アメリカ全土で品薄になった結果、割当制となっていた。
画像中にある通り、1944年(終戦前年)
そんな大流行していた頃に終戦です。
日本に進駐した米軍は、そりゃあもう誰もがリーバイスを履いているわけです。
日本語の「Gパン」は、どうやらこの頃に言葉が生まれたようです。
GパンのGはGIからという説は、どうやら正しいようですね。
また、終戦から約十年経った50年代には、今度は別の流行が生まれます。
映画「理由なき反抗」で、大人に反抗する若者を演じたジェームス・ディーンはジーンズ姿でした。
映画「乱暴者」で暴走族を演じたマーロン・ブランドは、革ジャンにジーンズでハーレーに乗っていました。
ここから今度は、
「ジーンズ」=「大人に反抗する若者」
というイメージが生まれます。
アメリカでは一時期、「ジーンズは不良が履くもの」ということで、ジーンズ禁止令があちこちの学校から出されたくらいです。
その次の60年代においては、高度成長期となった日本において、国産のジーンズメーカーが次々と誕生します。
アメリカに憧れる団塊の若者は、誰もがジーンズを履きました。
ヒッピーはジーンズでした。
学生運動もジーンズでした。
日本にジーンズが本格的に定着したのは、この頃からです。
さらに、「日本伝統の藍染めの糸を使ったデニム」という、日本オリジナルのジーンズが登場したのもこの頃です。
こちらは倉敷の会社が作ったので、「桃太郎ジーンズ」と名付けられました。
ではこの辺りで、前回の最初のネタに戻ります。
中3英語の教科書の
「ヨーロッパからアメリカ経由で伝わり、倉敷で独自の進化を遂げたデニム」
という言い方は多分、正しいと言っていいでしょうね。
すんません。
もうちょっと詳しく解釈すると、
「フランス伝統のデニム織りがアメリカのリーバイス経由で日本に伝わって、倉敷のメーカーが日本の藍染めと融合させたデニムを作り出した」
という意味だということがわかります。
まあ、私も色々と勉強になりました。
学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義
あすなろ212 デニム? ジーンズ?
2019.06号
中学三年の英語の教科書に、こんな一節がありました。
(前略)2013年には、デニム発祥の地フランスで、倉敷のデニム製品の展示会が行われました。
ヨーロッパからアメリカ経由で伝わり、倉敷で独自の進化を遂げたデニムが、来場者にその高い品質と技術を示しました。
……そうだっけ?
なんか私の記憶と違うような気がするんですよね。
デニムって、単なる染料だったような気がするのですが、どうでしたっけ。
英語の教科書に載っているコラムについては、以前ちょっとおかしい表記(午前と午後の間違い)を見つけたこともありますので、この話が本当に正しいのかどうか、ちょっと調べてみることにします。
さて。
まずは私のうろ覚え知識から。
・ デニムとは、フランスのニム地方の染料のこと
・ いわゆるジーパンは、リーバイさんが抗夫向けの作業ズボンとして、最初はキャンバス生地で作って売り出したもので、途中からデニム色に替えたら受けたために定番になった
・ 戦後、進駐軍によって日本に伝わったため、「GIパンツ」から「Gパン」と呼ばれるようになった
・ 倉敷や大阪では、確かに「本物のジーンズ」を作っていて、現在はそんな本物が作れるのは日本だけ
では、本当なのか、調べてみましょうか。
まずは、ジーパンの起源から。
先に挙げたとおり、最初にジーパンを売り出したのはリーバイさんです。
これがリーバイスLevi’sですね。
英語圏では、人名+sをブランド名にしている会社はたくさんあります。
例えば、チョコレートのハーシーズHershey'sもハーシーさんが始めた会社ですし、マクドナルドも本当はMcDonald’sで、やはり創業者の人名+sで、コーンフレークのケロッグも、会社名はKellogg’sです。
でもケンタッキーフライドチキンは、ケンタッキーさんが始めたわけじゃないのでsは付きません。
で、そのリーバイさんがアメリカにいた頃、カリフォルニアで「ゴールドラッシュ」が起こりました。
1950年頃のことです。
ゴールドラッシュとは、新たに見つかった金鉱脈に、人が殺到する現象です。
この時は数年のうちに30万人もが集まったと言われています。
――ゴールドラッシュの話だけでも面白いのですが、今回は割愛します。
さて、リーバイ氏の作った会社は、生地や衣類などの卸売りをしていたようですが、その中にキャンバス(カンバス)布がありました。
キャンバスは油絵でも使われますが、元々は帆船の帆のための布です。
他に、テントや馬車の幌にも使われていました。
そんなあるとき、リーバイ氏から生地を買っている仕立屋さんから、事業を興さないかという提案がありました。
この仕立屋さんは、作業用オーバーオールのポケットの端を、リベットで止めて補強したものを作っていたのですが、これを量産化しないかというものです。
リベットというのはですね……。
現在でも、ジーパンといえばポケットの端に丸い金属がくっついていますよね。
あれがリベットです。
リベットとは、本来は鉄板と鉄板をかしめるための鋲で、橋や飛行機などを製造するときに使われています。
――リベットの話も、語り出すとまた面白いのですが、今回は断念します。
リベット
ともかく二人は、このリベットを使った「ポケット口の取り付け強化法」について特許を取ると、工場を確保して生産を始めたのです。
売る対象となったのは、ゴールドラッシュで炭鉱夫をしていた労働者です。
当時は、とにかく丈夫なズボンが求められていたのです。
(この仕立屋さんの顧客は、炭鉱夫よりも木こりが多かったという話もあります)
ところで、当時のこのリベット付きのオーバーオールは、布の種類によって二種類が売り出されていたようです。
それが、デニムdenimとジーンjeanです。
デニム仕様は、丈夫な代わりに高価でした。
そのために、機械工やペインターが使っていました。
対してジーン仕様の方は、それ以外の一般労働者が着ていたようです。
デニムとは、元々はフランスのニーム地方特産の織物のことで、「セルジュ・デ・ニーム」という呼称を短くしたものです。
一方ジーンは、みんな大好きウィキペディアによると、
デニムを輸出する際にイタリアのジェノバから出港していたので、ジェノバが転訛してジーンとなった(つまり同じ物を指す)
……なんてことが書いてありますが、少なくとも19世紀のアメリカでは、全く別の種類の布として、使い分けられていたというのが真実のようです。
ではここいらで一旦、私のうろ覚えの答え合わせをしておくことにします。
まず、「デニム」とは織り方を示す言葉で、インディゴ染めのことではありませんでした。
ただし、元々デニムという布は、インディゴ染めが特徴だったようです。
GパンのGは、ジーンズを略しただけですね。
言われてみれば、そりゃそうですわ。
また、デニムのパンツは途中から追加したのではなくて、最初からあったのですね。
ところが、ジーンズの語源にもなっているジーンは、洗っているうちに「テントを着ているよう」になってくるのだそうです。
ところがデニムは、ジーンよりも丈夫で快適なので、デニムを着るとジーンには戻れない……
ということで、ついにはジーンを廃止して、デニム一本にしたようですね。
この話は、次回も続けます。
学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義
あすなろ182 日本とトルコ
2016.12号
インターネットでは有名な話、というものがあります。
中学校の教科書が今年度から改訂されているのですが、そんな中学二年の英語の教科書を見ていたら、そういう話が掲載されていることに気付きました。
話は、日本とトルコの友好の話です。
イランイラク戦争のトルコによる邦人救出劇から始まって、エルトゥールル号事件、トルコ北西部地震、東日本大震災、と話は続きます。
ここまで書けば、ネット中毒者ならばだいたいのストーリーはわかってしまうのですが、多分普通の中高生は知らないと思いますので、ここに紹介しようと思います。
所詮は中学英語の教科書ですので、字数の制約的に薄い内容となってしまっている補足をしたい、という意図もあります。
トルコという国は、アジアの西端にあたる国です。
地中海に面していますが、ヨーロッパから見て、トルコから東のことをアジアと言います。
というよりも元々アジアとは、黒海と地中海を仕切るアナトリア半島――通称『小アジア(しょうアジア)』――のことを指す言葉でした。
トルコの位置
15世紀から17世紀にかけては、この地を中心としたオスマン=トルコが大帝国を築いていましたが、19世紀にはロシアなどに圧迫されて、衰退の一途を辿っていました。
そんな中、明治維新を果たした日本から、皇族がこの地を訪れます。
そこでオスマン帝国は1890年、その返礼として、日本に向けて軍の練習艦を派遣することにします。
これがエルトゥールル号でした。
エルトゥールル号の派遣は、トルコにとって、アジアの大国としての威信を取り戻したいという思惑もありました。
ですから、日本に向かう途中では、アジア諸国を歴訪しています。
しかしエルトゥールル号は、長く使われていなかった船でしたので、航行中も破損が相次ぎ、修繕しながらの旅となっていました。
ようやく東京に到着した頃は、予算も日程も予定を大幅に超えた旅となっていました。
スエズを通過してきたにもかかわらず、東京に着くまでに実に11ヶ月も経過しています。
それに加えて、船内ではコレラが発生していました。
東京には6月7日に到着したのですが、それが出港可能になったのは3ヶ月後の9月になってからでした。
もう本当に色々なものが限界になっていました。
台風が迫る中、本国からの帰還命令が出されたエルトゥールル号は、日本の制止を振り切って出港します。
しかし、和歌山南端の大島付近で座礁して、爆沈してしまったのです。
和歌山県大島
実はここは、その4年前の1886年には、あのノルマントン号事件が起こって、イギリス人だけが生き残った地でもあります。
しかし、村民は漂着する外国人に対して、台風の中、医者を呼び、備蓄用の米や鶏まで潰して救命に尽力します。
その結果、乗員650名中、69名が救出されたのでした。
その後は、日本中から集まった億単位の義援金が送られたり、トルコが医療費を払おうとしても日本の医師が断ったり、という話がトルコに伝わります。
この一連の話は、トルコでは小学校の教科書に載っていました。
今は載っていないという話もありますが、どちらにせよ、こんな逸話を知っているトルコ人は数多くいるようです。
時代は下って、第二次世界大戦中のことです。
トルコは当初、中立を維持していました。
しかし連合国の圧力に負けて、1945年に日本に宣戦布告します。
ところが実際には、一切の軍事行動は行われませんでした。
そして戦後は、
「 同 盟 国 イ タ リ ア 」
や
「 中 立 国 ス イ ス 」
までもが日本に対して賠償金を請求する中、トルコは一切の賠償金を請求しませんでした。
1985年、イラン・イラク戦争の最中のことです。
イラク政府は突如、
「今から48時間後以降、イラン上空を飛行する全てを無差別に攻撃する」
という宣言をします。
各国は自国民脱出のために特別機を飛ばしますが、日本は……
日本の自衛隊は、侵略侵略と騒ぐ社会党(現・社民党)や共産党があったために、この距離を飛べる機体を持つことができませんでした。
また当時は、政府専用機もありませんでした。
つまり、この時の日本政府には、直接下せる手が何も無かったのです。
一方の民間では、日本航空が会社もパイロットも飛ぶつもりで準備していました。
しかし、労働組合が安全保証を取り付けない限り反対と言い張って、行動不能となります。
現地の日本人は各国の航空会社にかけあいますが、どこの国も自国民救出を優先させるため、それまでに取っていたチケットも、全て無効とされてしまいます。
その後は、各国の通常便が全て止まります。
日本人200余名は、脱出の見通しが立たないまま、町のあちこちで空襲におびえて隠れているしかない状態となっていました。
そんな中、とあるビジネスマンの懇願によって、その旧知の仲であったトルコ首相は、日本人救出を決断します。
日本人をトルコ人と同じに扱ってくれという依頼に対して、トルコは当時保有していた最大の機体を、日本人専用機として1機手配します。
これと、トルコ人用定期便の1機を合わせて、2機の飛行が決定しました。
トルコ航空では、その救出任務のためのパイロットを募ると、その場にいたパイロット全員が挙手したそうです。
イラクの設定したタイムリミットは、現地時間の午後8時30分です。
(※英語の教科書にある「午後2時」は間違い。日本時間ならば午前2時)
それに対して、トルコ行きの最終便が離陸したのは7時30分。
トルコのイスタンブールに着いたのは、8時20分でした。
誤差を考えると、本当に間一髪です。
その時2機は、わざと違う高度を飛行しました。
もし敵機に襲われても、トルコ人機を囮にして日本人機を逃そうというポジションで飛んだのです。
実はこの時点で、イランにはまだ600人のトルコ人がいました。
しかしこちらは、トルコ大使館などの用意した車に分乗して、陸路で脱出することになりました。
当然こちらの方が時間がかかるため、空路よりも危険度の高いルートです。
しかし、自国民よりも他国民の命を優先したという首相の采配に対して、文句を言うトルコ人は無かったといいます。
※なお現在では、緊急時には国会の承認なしで自衛隊機を派遣できるように、1999年に法整備されています。
→野党が当時「戦争法案」と呼んで反対していたものがこれです。
1999年、トルコ北西部で大地震が発生すると、日本は即座に救援隊を派遣しました。
日本が建てた仮設住宅には、5000人の被災者が身を寄せました。
2011年に東日本大震災が起こると、今度はトルコが救援隊を出します。
そして、原発事故によって各国が撤退する中、一番最後まで日本にとどまって救援に当たっていたのはトルコ隊でした。
同年10月には、今度はトルコ東部で大地震が起こっています。
しかし、東日本の被災者がおとなしく列に並んでいる姿を見ていたトルコ人達は、配給には列を作り、暴動などの混乱を起こさなかったということです。
学塾ヴィッセンブルク 朝倉