2022年4月

あすなろ239 ウクライナ

あすなろ

 
 
 
2022.03号
(2022.03.05記)
 
こちらには、基本的には時事ネタを書かないようにしていますが、今回はちょっと時事がらみです。
 
今、世界で一番話題となってしまった国、ウクライナの話です。
 
ロシアがどうしてウクライナに攻め込んでいるのか、ウクライナってどんな国なのか、色々な背景などをちょっと語ってみます。
 
まずは、位置から。
実は、ヨーロッパではロシアの次に広い国です。
 

 
地中海の一番東の奥に、黒海という巨大な入り江があります。
その北側に位置するのがウクライナです。
ヨーロッパの穀倉地帯という別名も持つ、平坦な地です。
私もウクライナといえば、広大な麦畑のイメージです。
 
ウクライナの首都は、キエフです。
キエフという名前、世界史を学んだ人は、どこかで聞き覚えはないでしょうか。
 
キエフ大公国という国が、9世紀から13世紀まで、ヨーロッパにありました。
1240年にモンゴル帝国に滅ぼされますが、その直前の頃は、ヨーロッパでは最大の国でした。
 

 

 
キエフ大公国はモンゴルに倒れましたが、その勢力が弱まった頃、モスクワ大公国という国が興ります。
モスクワ大公国は、その後のロシア帝国です。
それを受け継いだのがソビエト連邦で、現在のロシアと繋がっていきます。
 
モスクワ大公国は、キエフ大公国の正統な後継を自称しています。
つまり、今のロシアは、キエフを由来とする国と言っているわけで、
恐らくロシアの学校で教える歴史でも、そうなっていると思われます。
 
なお、日本では、「キエフ大公国」と呼ばれていますが、正式な現地名は
「ルーシ」または「キエフィアンルーシKievan Rus'」と言います。
ウィキペディアでは「キエフ・ルーシ」となっていました。
 
そして、ロシアRussiaという名は、このルーシから来ています。
また、隣国のベラルーシBelarusという国名も、このルーシを由来としています。
 
さらに言うと、ロシア料理として有名なのはボルシチとピロシキですが、
ボルシチは元々はウクライナ料理ですし、ピロシキはロシア・ベラルーシ・ウクライナ地方の料理です。
また、コサックというのは、ウクライナに発生した軍事集団です。
 
というように、ウクライナとモスクワは、文化的や歴史を共有する国同士なのです。
 
さて、現在ロシアは、なぜウクライナを攻めているのか。
 
表だってはNATOがNATOが言っていますので、新聞などでもそんなことが書いてありますが、それだけが真意ではありません。
一番の理由は、ロシアの停戦条件を見ればわかります。
 
すごく単純に、クリミア半島の支配のためです。
もう少し言えば、セバストポリへの兵站ルート(武器や食料の補給線)を、今よりも太くするためです。
 
もう一回、地図を出します。
 

 
黒海に突き出た半島をクリミア半島と言いますが、この先端にある都市がセバストポリです。
 

 
そしてこの写真で、だいたいどういう場所かおわかりでしょうか。
 

 
ここは、軍港として最高の地形なのです。
 
18世紀、初めてロシアがこの地を支配したとき以降、この街はロシアの軍港としてずっとあり続けていました。
 
19世紀、ロシアとオスマン帝国がクリミア戦争をしたときには、この軍港を巡り、大激戦となっています。
ここで一度放棄しているのですが、戦後また返還されています。
 

クリミア戦争といえば、ナイチンゲールが活躍したことで有名ですね。
白衣の天使なんて言われていますが、実はなかなか壮絶な人生を送っていますので、一度どこかで読んでみてください。

 
第二次世界大戦では、ドイツ軍がここを攻撃するために、史上最大の大砲(ドーラ80㎝列車砲)を使用していることでも有名です。
 

※軍艦史上最大と言われた戦艦大和の主砲でも、46㎝です。

 

 
ロシアにとってセバストポリは、貴重な不凍港です。
 
海軍の拠点となる地ですので、クリミア戦争の頃から要塞化されています。
 
しかし、冷戦後のソ連崩壊によって、ウクライナがクリミア半島と一緒に独立してしまいました。
ですが先述の通り、ここはロシア艦隊の基地です。
そのまま「他国」に渡すわけにはいきません。
そこで、租借という形で、ロシアはセバストポリ軍港を使うために、ウクライナに金を払い続けてきました。
 
このあたりで、ロシアがクリミア半島を欲しがる理由がだいたいおわかりかと思います。
 
ソ連崩壊で、ウクライナに手渡す羽目になったのは、軍港だけではありません。
周辺にあった軍需工場と、核ミサイル基地もでした。
ですから、ウクライナは独立と同時に、核保有国となったのです。
 
しかし、アメリカとロシアが説得して、現在の国境を保証するという約束をしたので、ウクライナは核を手放すことにしたのです。
 

(正確には、ロシアがアメリカを巻き込んだのではないかと思っています)

 
さて、このクリミア半島近辺には、ロシア人が多く住んでいます。
「ロシア系住民」という言い方をされることが多いのですが、ウクライナ人から見たら、単なるロシア人です。
 
どうしてこういうことが起こっているかというと、理由は3つほどあります。
 


1.
ソ連が支配した頃、ホロドモールという人工的な飢餓をスターリンが起こして、大量に死者を出した。
 
2.
第二次世界大戦の独ソ戦において、スターリンがクリミアタタール人にスパイ嫌疑をかけて、何十万もの人々をシベリアなどに強制移住させた。
 
3.
そうやって人口が減ったところに、ロシア人を入植させた。


 
と、ここまでがソビエト時代の話です。
そこまでロシア化を進めていた土地だったので、本格的にロシアにするには、あともう一押しに見えていたのです。
 
2014年、親ロシア派の大統領がデモを抑えきれずに、ロシアに亡命する事件が起こります。
それに反発した親露派(中身はロシア軍)の起こした「抗議デモ」が庁舎を襲撃して、
そこでの「住民投票」によってウクライナから「独立」して、ロシアに「編入」されました。
 
この事件は、ハイブリッド戦争と呼ばれています。
従来の軍事力だけではなく、情報を押さえて、かつ攪乱することで制圧するという、
21世紀型の情報戦争とも言えるものでした。
ロシア軍は国籍を隠してウクライナ東部に潜入して、抗議デモに混ざって過激な行動を繰り返すことで、
ついにはデモ隊を暴徒にすることに成功したのです。
 

ところで、この「ハイブリッド戦」は、実は現在、目の前で進行中です。
この日本で。
 
テレビには、特定のアジア国に対して、過剰に気を使う意見や世論が度々紹介されるようですが、それがまさにその前哨戦です。
また、スパイ防止法や国防関連の法案を通そうとすると、すごい勢いで反対して世論を煽ろうとするマスコミや政党がありますが、
それがそうです。

 
日本の話はともかく、こうやってロシアは、クリミアを事実上は手に入れました。
しかし、ロシアから見れば、クリミアは「飛び地」です。
現地は海に囲まれた地域ですので、まずは水が足りません。
さらに、陸路のルートは武力衝突が続いていて、維持するコストが膨大となっていたのです。
しかも、西側からの経済制裁は止まないし。
そこで、もう一気に首都を落としてしまおうと動いたのが、今回の侵攻でした。
 

 
しかしこれは米英も読んでいて、2015年からウクライナに武器を供与してきて、訓練も続けていました。
今のウクライナの善戦は、それが功を奏したとみることもできます。
 
今回はここまでにしますが、あと一つだけ。
 
現在(2022.03.05)も戦闘中のハリコフという街ですが、
ここはソ連時代、ナチスに一旦奪われたが、激戦の末に奪還した街です。
今回、侵略する側に回ったロシア将兵の心境たるや、いかなるものでしょうか。
 
学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義

あすなろ238 斎藤隆介

あすなろ

 
 
 
2022.02号
 
昔話が好きです。
 文庫本の昔話集を読んだのは、確か中2の頃だったと思います。
中3の時には、日本の昔話の原点であり神話の原典だからと、古事記を原文で読み始めました。
 

私が中3の時に読んだ古事記は、当時のしおりがささったまま、塾の書架に置いてあります。

 
また、高校生の頃には、柳田国男の「遠野物語」と、グリム童話の「昔の版*」を全巻読破しました。
 

グリムの昔の版:
岩波文庫「改訳グリム童話集」全7巻
金田鬼一 昭和二九年発行(改訳版)
改訂版は昭和十三年 初出は大正十三年(1925)
→日本で初めて全訳されたグリム童話集です。

 
昔話が好きになったのは、子供の頃に放映されていたアニメ「まんが日本昔ばなし」の影響もあるかもしれません。
しかし恐らく、それ以上に影響したのは、父親によく読んでもらった、
斎藤隆介の童話集「ベロ出しチョンマ」だろうと思います。
 
一般的には、斎藤隆介と言えば、ベロ出しチョンマよりも
「花さき山」
「モチモチの木」
の方が有名かもしれません。
小学校の国語の教科書にも採用されたことがありますが、今でも掲載されているのでしょうか。
 
絵本版は、滝平二郎の切り絵を挿絵としています。
切り絵を引き立てるために黒地となっていますが、
「黒い児童用絵本」というものは、当時は画期的だった……
というか当初は、「子供用に黒い本なんて」と書評では酷評されていたらしいのですが、
実際には人気が高かったようですね。
 


花さき山(1969)

 

モチモチの木(1971)


 
出版当時は批判されたが、後に評価を受けるという点では、
やなせたかしの絵本「あんぱんまん」に通じるものがありますね。

 
なお、切り絵の滝平二郎は、茨城県の旧玉里村(現:小美玉市)の出身です。
2009年に亡くなっているのですが、存命の頃、つくば市の図書館で展覧会+サイン会がありまして、
絵本を持ち込んでサインをしてもらったことがあります。(2002年)

 
この人の切り絵って、子供の頃は嫌いだったんですけど、不思議なものです。
ふと思い立って、絵本を買おうと思ったのは、恐らく二十代後半くらいだったと思います。

 
ちなみに、この写真の左端にある、朝日新聞のマークがある紙は、滝平二郎の「きりえカレンダー」です。
まだ他にも、
 
……じゃなくて、斎藤隆介の話ですよね。
 
その、「花さき山」や「モチモチの木」の作者である斎藤隆介の童話短編集が、
先に紹介した「ベロ出しチョンマ」です。
「花さき山」も、元々はその「ベロ出しチョンマ」の中に、プロローグとして収録されていた
「花咲き山」でした。
 
斎藤隆介、いいですよー。ほんと。
 
そういえば、この中に入っている「ひいふう山の風の神」は、四谷大塚のジュニア教材に、
国語の問題文として入っていたような気がします。
二年生だったかな?
言いわけ小僧の言いわけが、風の神様の風袋を、黄色くしちゃう話です。
 
そういうあっけらかんとした話もいいのですが、それとは別にですね、
 
子供の頃からあんまりにも何度も読んでいるせいか、
読み始めるだけで泣きそうになっちゃう話が、何個もあるんですよね。
 
でも、自分の子供に読んであげたいので、涙声になりそうなのを必死でこらえて読み聞かせたこともありました。
 

※ 別に、元々涙もろいってわけではありません。実際、映画で泣いたことは殆どありません。

 
その筆頭は、書籍「ベロ出しチョンマ」の中にもある「天の笛」。
次が「三コ」。
この2つは私にとってヤバいです。
まともに読めません。
 
次点が、「ベロ出しチョンマ」と「八郎」です。
 
さて。
かつて自分が小学5年生か6年生の頃だったと思うのですが、学校で地図帳を眺めていて、
「八郎潟」という場所を見つけました。
 
八郎潟とは、ベロ出しチョンマの中にあった話「八郎」に登場する場所です。
 
 
ほんとにあったのか――――!
 
 
実は、斎藤隆介の話は、グリムのように民話を集めたものではなくて、
全て自作の「昔話風創作」なのですが、まれにこうやって実在の地名が出てくるのです。
 
……なんてことは後で知ったのですが、その時から、いつか行きたいなんて思って、
 
――――――――――――――――――――
 
確か1997年だと思ったのですが、
ヤマハの主催で、道の駅スタンプラリーというイベントがあったんです。
そこで自分も、五月の連休に、バイクで道の駅巡りをしようと思って、ちょっとしたツーリングを考えたのです。
 
その目的の一つが、八郎潟でした。
 
連休の初日は、朝から福島県いわき市の知人宅まで、トラックでバイクの配達に行って、一旦帰宅。
 
そこからすぐバイクに乗り換えて、常磐→磐越→山形道と経由して、山形か秋田のどこかで野宿一泊。
夜が明けたら鳥海山のワインディングを経由して日本海側を走って、
午前十時頃、ついに八郎潟に到着。
 
現地の看板の地図を見ると、「寒風山」なんて地名もあります。
 
そして「八郎」の話には、波をせき止めるために海に沈められた「さむかぜ山」が登場します。
 
 
すげ――――。
 
本当にあった――――。
 
 
当時は28歳。
八郎潟を地図で見つけたのが、多分11歳か12歳くらい。
 
実に、十余年越しの夢がかなったのでした。
 
 
 
本当は、実在の「寒風山」は「かんぷうざん」と読む、ということを後で知るのですが、そんなことはどうでもいいんですよ。
 
バイクでは、随分いろいろな所に行きました。
四国八十八箇所も全部回りました。
 
でも、八郎潟で得たあの感動、あの感激は、他には比べられるものがありません。
 
その後も、色々なことを経験しましたが、でもやっぱり、あれを越える感動は、未だにありません。
 
自分は本当に、あの八郎潟にいるんだという、あの気持ちは忘れられません。
 
 
 
八郎潟からはさらに北上して、青森で夜を迎えた頃には雨が降り出しました。
そこでまた一泊野宿してから、雨の東北道で帰宅しました。
この時は二泊で2000キロくらい(トラックでいわきまで往復した分も含む)走って、午前中に帰ってきました。
 
そしてちょっと仮眠して、その夕方からはカミサンを後ろに乗せて、長野方面にツーリングに行きました。
こちらも確か二泊で、今度は山道ばっかりを800キロくらい走ったと思います。
計2800キロですが、だいたいこれは、鹿児島まで往復するくらいかな?
 
何が言いたいかというと、若い頃はどこか頭がおかしいね、ということです。
でも、だからこそ、色々な経験ができるんです。
 
学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義

あすなろ235 八郎潟

あすなろ

 
 
 
2021.07号
 
秋田県に、八郎潟というところがあります。
 
四谷大塚のテキストでは、社会5年上で登場するのですが、小中学校の教科書には掲載されていません。
地図帳にはありますけど。
 
場所は、男鹿半島の付け根です。
 
 




 
 
かつてここは、霞ヶ浦よりも広い湖でした。
しかし現在は、その8割弱が干拓されて、陸地となりました。
陸地は主に、水田となっています。
 
上のように、日本地図で見ると、大して広いようには見えないかもしれません。
しかし、実際にはここだけで、神奈川県の全水田面積に匹敵するそうです。
干拓は、国家プロジェクトとして進められました。
 
この干拓の目的は、食糧増産でした。
終戦直後の食糧難の時代に、耕作地を増やそうとしたわけです。
……と書くと、戦後初めて思いついた話のようですが、実は江戸時代の頃からあった計画でした。
 
八郎潟は元々、水深が3~5mしかない、浅い湖でした。
そんな所を、国中のありとあらゆる場所を水田化してきた日本人が見逃すわけはありません。
当然、目は付けられていたのです。
 
しかし実際には、その湖底はヘドロが何十メートルもの厚さの層となっていましたので、
見た目ほどは容易ではないこともわかっていました。
 
江戸時代には、新田開発で名を馳せた渡部斧松という武士が、八郎潟の干拓を計画しています。
しかし財政的・技術的に困難とされて断念しています。
その後も、何度も計画だけは現れたようですが、実現には至りませんでした。
 
さて、少々話は変わります。
戦後の日本は、サンフランシスコ平和条約によって独立を回復しますよね。
しかしこの時、オランダがなかなかこれを認めようとしませんでした。
 
オランダは大戦前、東南アジアに植民地を多数持っていました。
しかし戦時中、それを日本に奪われてしまいます。
 
日本が敗戦してからは、また元のように植民地支配をしようとしたのですが、
旧日本軍人が協力した現地人に抵抗されて、次々と独立されてしまいます。
 
オランダから見れば、日本には植民地を奪われたという恨みがあるわけです。
 


戦後、東南アジアからインドにかけての諸国が次々と独立したのは、実はこのように、
戦時中の日本の進出がきっかけとなっています。
 
それまで、白人には何をやっても勝てないと思わされていたところに、
同じ顔をした日本人が、あっという間に白人を追い出したのです。
日本人はまた白人と違って、現地人と対等な付き合いをしていました。
軍上層部の思惑はともかく、少なくとも現地に進駐した軍人達は、
大東亜共栄圏の設立を夢見ていたわけですから。
 
それもあってか、日本の軍人達は敗戦時も、
現地人のために武器を残して引き揚げていったり、
人によっては現地に残って、共に独立のために戦ったりしています。


 
そこで、何か合法的に、オランダにお金を払えるようなことを見つけて、オランダの機嫌をとる必要が出てきました。
そこに浮上したのが、八郎潟の干拓の技術指導です。
 
オランダと言えば、海抜ゼロメートルの干拓地です。
干拓の技術は高いはずですから、その指導を依頼すればいいのではないかと、
秋田県から吉田茂首相に、直接の要望がいったのだそうです。
 
そんないきさつで昭和二十七年、八郎潟の干拓はついに動き始めたのでした。
 


なお、こうやって日本はオランダ政府のご機嫌を取ることには成功したのですが、
オランダでは今でも日本のことを、
「オランダを邪魔したヤツだからキライ」
と考えている人が多いらしいですね。
ですから好感度調査を行うと、日本を好きじゃ無い率が、
ヨーロッパではオランダが一番高いらしいです。


 
それはともかくとして、八郎潟です。
 
干拓には、まず湖底に堤防をぐるりと建設して、閉め切った内側の水を排水するという手法が選ばれました。
 
大正の頃、国家事業として岸の方を排水する計画が立てられているのですが、その逆ですね。
 


大正の計画


 
確かに干拓と言えば、岸から陸地を作るのが普通の方法ですから、
内側を丸々排水するというのは、いかに大胆な計画だったかということがよくわかります。
 
 
 
昭和32年 湖底調査開始。
 
昭和33―34年 試験堤防の建設。
地盤の一番ゆるい場所に堤防を建ててみて、さらには、その堤防の破壊実験まで行っています。この試験堤防だけに2年をかけました。
 
昭和33―38年 堤防工事。
相当苦労したようです。浅いところと深いところでは、工法を変えているとか。

 
昭和38年 排水。

 
昭和39年 大潟村発足。
 
昭和41年 排水完了。
 
昭和42年 入植開始。
 
 
 
合併や分割なしで新しい自治体ができるのは、この大潟村が、日本で最後の事例です。
 
八郎潟の話は、もう1つ続けます。
 
学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義