2022年5月
あすなろ237 涼月(2)
2022.01号
それでは、涼月(すずつき)の話です。
塾のお地蔵さんは、涼月という子を祀って、江戸時代に彫られたようだという話を、前回書きました。
その中でちらっと、涼月(すずつき)という名前の船があったという話をしましたよね。
「すずつき」は現在、海上自衛隊の護衛艦にあります。
あきづき型護衛艦の3番艦で、2014年から配備されています。
ところで、海上自衛隊の艦名のほとんどは、日本海軍の連合艦隊で使われた艦名を踏襲しています。
すずつきも、戦時中にあった涼月という駆逐艦(くちくかん)から、その名前を受け継いでいます。
ただし自衛隊公式には、すずつきという艦名は
「爽やかに澄み切った秋の月」
に由来するとされています。
駆逐艦「涼月」とは、
「たまたま同じ名前」
というスタンスのようです。
そして実は駆逐艦「涼月」は、ちょっと有名な船です。
その話を……
……よりもまず、
駆逐艦ってなあに?
からですよね。
まず、戦争における船とは、元々は敵地に兵力を運搬するための手段です。
すると今度は、その輸送を阻止するために、船を使って船を沈めようとします。
そうやって船そのものが武器として使われるようになって、船対船の、「海戦」が行われるようになります。
また、船は元々、重量物の運搬に向いていますので、大砲が発明されると、それを装備した船が登場します。
大砲は、船同士の戦いにも用いられますが、陸上の敵地の攻撃にも使われるようになります。
そのための船が、戦艦と呼ばれるものです。
戦艦は、船体を大型化することによって、ますます大型の大砲を積めるようになります。
陸上では移動が困難なほどの巨大な大砲も、船に詰めばどこにでも運べます。
また、敵よりも強力な砲を積めば、相手の弾が届かない距離から、一方的な攻撃ができます。
そうやって、戦艦と主砲のサイズは、どんどん大型化していきました。
世界史や日本史で、もしかしたらロンドン軍縮会議の話を聞いたことがあるかもしれません。
これは軍艦の保有隻数を制限するものですが、ルールの中には船のサイズと数に加えて、砲のサイズがありました。
要するに、どれだけ強力な砲を積んだ戦艦が何隻あるかというのは、軍事力の目安だったのです。
今で言えば、核ミサイルの性能と数のようなものですね。
そうなってくると、戦艦はますます巨大化します。
そのために、当然ながら質量も巨大なものとなりますので、小回りが全くきかなくなります。
潜水艦に懐に入られると、強力すぎる遠距離砲ではなんともできません。
そこで、それをカバーするために、速力があって小回りのきく船が必要となります。
戦艦は、小型の艦を何隻か護衛につけた「艦隊」で行動するようになります。
この小型艦が、駆逐艦です。
英語ではデストロイヤーと言います。
駆逐艦は、潜水艦の駆逐以外にも、偵察や機雷の掃討にも運用されました。
この役割分担は、日露戦争の時にもすでに行われていました。
日本海海戦の主力は戦艦ですが、戦闘には魚雷艇や駆逐艦も参加しています。
特に、主海戦のあったその夜には、駆逐艦隊が戦艦など大型艦を一夜で5隻沈めています。
駆逐艦の速さを生かした「高速近距離射法」という戦法によるものでした。
この隊を指揮したのが、「鬼貫(おにかん)」と呼ばれた鈴木貫太郎(後の首相)です。
鈴木貫太郎の人生も、とても面白いので、
興味があったら調べてみてください
(鈴木貫太郎)
一方、第二次世界大戦が始まると、日本海軍は新戦法を編み出します。
航続距離の長い航空機を使って、戦艦の巨砲さえも届かないはるか遠距離から攻撃をしかけたのです。
これによって日本軍は、緒戦を連勝します。
そのために開発されたのが、いわゆるゼロ戦です。
それに対抗するために、アメリカ軍も同じように、航空機を積極的に活用するようになります。
その結果、太平洋戦争における艦船への攻撃は、航空機が中心となってきました。
すると、かつては魚雷や機雷という対艦装備が中心だった駆逐艦の役割も変わってきます。
対空砲を積んで、航空機から大型艦を守る、という任務を持たされるようになるのです。
そうやって、本格的な対空駆逐艦として最初に就航したのが、秋月型駆逐艦です。
そしてその秋月型の三番艦が、涼月です。
…………ん?
涼月は、秋月型駆逐艦の三番艦。
一番艦は秋月。
二番艦は照月。
すずつきは、あきづき型護衛艦の3番艦。
1番艦はあきづき。
2番艦はてるづき。
きっと偶然でしょう。
海自は駆逐艦とは関係ないって言ってるし。
それでは、ようやく最初に戻ります。
涼月は、ちょっと有名な駆逐艦です。
それを説明するために、涼月の艦歴を、箇条書きにしてみます。
1942
竣工。
1943
艦隊編入、作戦従事。
1944
潜水艦の魚雷攻撃により大破。
艦前部と艦尾を喪失。
艦橋も破壊されて艦長も戦死。
しかし沈没は免れたため、曳航されて呉に帰還。
ちょっと一回止めますね。
この時点で、前と後ろを吹っ飛ばされているのですが、港になんとか戻されています。
軍艦というのは巨大な塊ですので、一から作るにはかなりの時間と鉄と必要とします。
ですから、使えるものは可能な限り再利用するわけです。
ただ涼月の場合、修理担当者が「沈まなかったのが不思議だった」と述懐するような状態だったようです。
では続けます。
1944
半年の修理を経て作戦従事中、潜水艦の魚雷攻撃により艦首切断、船体亀裂。
呉に退避して修理。
艦首切断ですから、ここでもかなりの損害を受けていますが、修理されて復帰します。
1945
戦艦大和の護衛として、沖縄特攻に従事。
坊ノ岬沖海戦にて前部大破、戦闘不能となる。
なお、大和はこの海戦で沈没。
(坊ノ岬沖で被弾炎上する涼月)
大和沈没後、帰投開始。
通信機器は使えず、ジャイロもなく、海図も焼失した状態で、
艦首が沈下しているために前進すると船体が潜ってしまうような状態であった。
火災が鎮火しないまま、後退によって本土を目指す。
帰投開始からちょうど24時間後、佐世保に到着。
つまり、前に進むと沈んでしまうので、丸24時間の間、バックし続けて戻ったのです。
また、火が残っている状態ですので、夜間は大変目立ちます。
ですから帰還中、潜水艦にも攻撃されたようですが、幸いにも魚雷は外れました。
(涼月の損害)
ようやく佐世保に到着したところで、ドックに入れるために前進に切り替えたところ、浸水が進行。
ドックの排水が間に合わずに着底。
船の修理は、ドックという場所に船を入れたら、水を抜いて固定します。
しかしその水抜きの最中に、先に船底が床についてしまったのです。
間一髪というやつです。
しかしやはり、損傷は激しかったために、年内には本修理は行われないことが決定しました。
佐世保の近くに係留されて、その夏、そのまま終戦を迎えます。
(終戦時の涼月)
1948年、涼月は上部の構造物を撤去したのち、駆逐艦「冬月」「柳」と共に、
北九州市の若松港の、防波堤として再利用されました。
しかし風化による損傷が激しくなってきたこともあって、現在は冬月と涼月は完全に埋め立てられています。
柳だけはかろうじて地上に残っているようですが、やはり錆が進行したために、
現在では補修されて、ようやくその姿をとどめている状態です。
駆逐艦柳 補習前
現在の柳
と、いうように。
涼月は、三度も奇跡の生還をして、終戦まで生き残りました。
いわゆる「不沈艦」です。
しかも、今でも日本の本土に埋まっていて、そこを訪れることもできるという、希有な存在です。
そして偶然、それと同じ名前のお地蔵さんがこの塾にはあって、それがみんなを見守っているんですよ。
名前が同じなのは、本当に偶然なんです。
最高でしょ?
実は、この駆逐艦涼月の話は、護衛艦すずつきが進水して命名された2012年から、ずっと書きたかった話でした。
下書きをちょっと書き始めたところでやめて、10年間、ずっとそのまま保留にしてありました。
それをこの度、ようやく完成させた次第です。
(今回の1枚目の画像は、10年前にどこかからDLした、すずつきの進水式の様子です)
お付き合いいただき、ありがとうございます。
学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義
あすなろ236 涼月(1)
2021.11号
少し前、塾のお地蔵さんのお話をブログに書きました。
今回の内容は、それを基にして加筆修正しておりますので、大部分が重複します。
すみません。
塾の敷地、南東の角に、石彫りのお地蔵さんが立っています。
自販機の脇に安置されている、アレのことです。
これ、いいでしょ。
これの由来については、話せば長くなるのですが、せっかくですから簡単に。
もう何年前だったかなあ。
ヤフオクで買ったんですよ。
なお、台座となっている石は、山新で買った庭石です。
ですが、モノ自体はちゃんと骨董でして、江戸時代に彫られた物のようです。
その証拠に、光背には日付が彫られています。
※ 光背(こうはい)とは、仏像や人物画の、頭の周囲に描かれた光や炎などのこと。
フランシスコ・ザビエルの、頭の後ろで光っているアレも、光背です。
光背の向かって左には、
「寛政丁巳六月七日」
という文字が見えます。
あの「寛政の改革」の寛政年間のことです。
「丁巳」は、「ひのと み」で、つまり、寛政九年=1797年のことです。
今は2021年ですから、224年前のことですね。
その六月七日(旧暦)ですから、現在の五月半ばごろだったようです。
また一方で、光背の向かって右には、祀られた方と思われる名前が入っています。
「涼月童女」
(凉月にも見える)
涼月は、本来は「りょうげつ」と読みますが、現代風に、「すずつき」と読んでも構わないと思います。
涼を「すず」と読むのは、要は「送り仮名ぶった切り読み」で、一般的には最近のどきゅ…………キラキラネームみたいですが、そういうわけでもありません。
というのも、旧日本海軍の駆逐艦に、「涼月(すずつき)」という名前の艦があったからです。
つまり少なくとも、戦前にはあった読み方ということになります。
そして、童女とは、一般的には嬰児より上で成人するまでの女性のことです。
つまりは、小学生から中学生くらいまでの女性です。
恐らく、今から200余年前、涼月という女の子が亡くなって、それを祀るために彫られたものでしょう。
そう言うと、
きゃーこわーい とか、
のろわれるー とか、
たたられるー とか、
そういうことを言う人がいますが、そういうのとこれとは、根本が違います。
例えば、道祖神という土地の神様の場合。
大抵の場合は、その土地の守り神で、外から来る邪気を払うために置かれます。
しかしまれに、何か悪いことがあった場所で、その地の穢れや怨念を鎮めるために置かれることがあります。
昔からのお社を動かしてはいけない、というのが、まさにそれです。
でもこの地蔵の場合は、明らかにそういうのじゃないですからねえ。
だって童女って書いてありますし。
また仮に、かつては涼月ちゃんがこの石に取り憑いていたとしても、200年も経ったら、もう毒気は抜けてますよ。
それよりも、塾の守り神となってもらって、受験の神様として扱えば、涼月童女も、そういう神様になります。
日本の八百万の神というのは、本来、そういうものです。
世の万物に神が宿るというのが八百万の神ですが、元から宿っている神だけではなくて、宿ってもらう神もあります。
そういう場合、何でもいいのです。
そこいらに落ちている石ころでも、それを神棚に祀って祈れば、そこに神が宿ります。
神が憑くと表現してもいいかもしれません。
ですから逆に、コワイコワイと言っていると、本当に怖い神になります。
その通り、怖い神が憑くからです。
そう言える理由は、私に神の声が聞こえるからでも経典に書いてあるからでもなくて、宗教学的な見地からです。
霊感があると自称して、恐怖を煽る輩がそこここにいますが、そういうのに乗せられないようにしましょう。
すずつきちゃんも、もう、この塾には何年もいます。
この土地にも、すっかり馴染んでいることでしょう。
今年の生徒も、また見守っていてください。
……というところでブログは終わったのですが、本当はまだ書きたいことがあります。
次回は、地面の下にいる涼月の話です。
学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義