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HOME雑記帳(あすなろ)あすなろ63 アムンゼン・スコット・白瀬
2007年1月号
興味の対象というものは、
人によって本当に違うものですね。
それに伴って知識の偏りというものも、
相当の個人差が生じるものだと感じることが、
何度もあります。
その領域も、人物でいうと、
私の場合は「探検家」に
詳しい方になるのでしょうか。
コロンブスやマゼランから始まって、
アジア探検のスウェン=ヘディン。
アフリカ探検の
リビングストンやスタンレー。
オセアニアからポリネシアを探索したクック。
果ては
「地球は青かった」
ユーリ=ガガーリンや
「この一歩は小さな一歩だが」
ニール=アームストロング船長……
このあたりの人物名は
自分としては
一般常識だと思っていたのですが、
どうやら違うようだと、
最近になってようやく気づいてきました。
しかしここは敢えて、それを承知で。
個人的には
是非知って欲しいと思っている話を、
ここで紹介します。
アムンゼンとスコット、
そして白瀬の、
南極探検の話です。
「初踏破」「初渡航」というものは、
国同士などで競い合うことがよくあります。
近年では1960年代に、
アメリカとソ連が
宇宙開発競争を
していたこともありました。
ソ連が有人飛行をすれば
アメリカが月到達の計画を発表し、
国の威信を賭けて成功させました。
しかし、いくら競争といっても、
これは年単位のものです。
同じ日にロケットを飛ばして
競争したわけではありません。
が、
南極点の初踏破を目指した
3人のチームは、
全員が同時に南極大陸に立ち、
争っていたのです。
それは1911~12年の夏
(南極では年末が夏)のことでした。
南極大陸に最初に上陸したのは、
イギリスのスコット隊でした。
ロバート・スコット
イギリス海軍大佐
1868-1912
スコット隊は、
イギリスが国の威信を賭けて
編成したチームで、
最新式の動力式そり(詳細不明)と
小型の馬、
牛革製の防寒具を用意していました。
しかもスコットは、
それ以前にも南極点を
目指して進んだこともあります。
とにかく、大国のバックアップがついた、
最強のチームだったのです。
スコットが上陸した地点は、
極からは少々遠い地点でした。
しかし、
イギリスは前々から
南極の調査を重ねていたので、
地の利がある箇所を
上陸地点に選んだようです。
次に上陸したのは、
ノルウェーのアムンゼンでした。
ロアール・アムンゼン
1872-1928
実はアムンゼンは、
北極点を目指していました。
彼はその数年前には、
ヨーロッパから北西に出発して、
北米の北を通って
ベーリング海まで出る航路を制覇しています。
なおベーリングとは、
この地を探検してここで死んだ
探検家の名前です。
ベーリング
1681-1741
そしてその後、
同じノルウェーの探検家で、
北極海を探検したナンセンから、
氷に潰されない画期的な船
「フラム号」を譲って貰っています。
ナンセンがフラム号に辿り着くまでの話も、
なかなか面白いです。
ナンセン
1861-1930
フラム号
次はいよいよ北極点、
というはずでした。
しかしその準備のさなか、
アメリカのピアリーが、
北極点到達を果たしてしまいます。
ピアリーもすごい人で、
最初の挑戦から局地到達まで
15年の歳月をかけています。
ロバート・ピアリー
1856-1920
それは
アムンゼンが出発を予定していた
前年のことでした。
そのころは、
イギリスが南極を目指す計画が
すでに発表されていました。
アムンゼンは
南極行きを密かに決意したものの、
当時の大国であるイギリスを
刺激しない方が得策だと考えます。
そして出航から2ヶ月たった後、
入港地にて計画変更を突然発表し、
すでに洋上にあったイギリス隊にも
電報を打ったといわれています。
イギリス隊が本国を出たのは1910年6月、
アムンゼンがノルウェーを出たのは
8月のことです。
対して、
日本の白瀬が東京を出発したのは、
すでに11月のことでした。
白瀬矗(しらせのぶ)
大日本帝国陸軍中尉
1861-1946
白瀬もまた、
子供の頃から北極を目指していましたが、
ピアリーに先を越されて
計画を変更した一人です。
イギリスの計画も聞いていましたので、
とにかく時間がない中で
準備を進めなければなりませんでした。
探検の費用は、
当初は国が出してくれる予定でした。
実際に、衆議院では満場一致で
補助金の支出が可決されます。
が、明治政府は結局、
まったく資金をだしませんでした。
白瀬は、
国民からの義捐金によって全てを準備し、
足りない分は
莫大な借金として背負ったままで
出発することになります。
白瀬が東京を出た頃、
スコット隊とアムンゼン隊は、
それぞれニュージーランドとアフリカを出て、
翌1月には南極に上陸を果たします。
しかし出遅れた白瀬は、
氷に阻まれたために
同じ夏には上陸を果たせず、
オーストラリアまで
一時撤退することになってしまいました。
そして同年11月に
南極大陸に向けて再出発、
翌1月16日にようやく上陸を果たします。
大陸上陸は、アムンゼン、スコットに
遅れること丸一年でした。
他の2隊は上陸後、
半年を費やして
現地で準備をしているのですが、
白瀬にはもう時間がありません。
そのまま極点を目指すことになりました。
しかし前進は思うようにならず、
1月28日に進行を断念。
その地を
大和雪原(やまとゆきはら)と命名し、
帰途についたのでした。
大和雪原における白瀬隊
栄光はなりませんでしたが、
一人の死傷者も出しませんでした。
さて一方、
それに先立つ前年の10月19日、
アムンゼン隊が基地を出発しています。
スコット隊は、
10月24日に先発隊が出て、
本体は11月1日に出発します。
しかし、スコット隊自慢の動力車は、
一週間後にはトラブルを起こして
行動不能となります。
スコットは馬ぞりで進行しますが、
馬の足は氷上進軍に向かなかった上に、
馬自体も凍死したり、
クレバスに落ちたりして失い、
最終的には人力で
そりをひいて進むことになります。
しかし一方、アムンゼンは、
北極海での経験を生かし、
犬ぞりとエスキモー服を用意し、
さらに前年から、
アザラシなどの肉をあちこちに
あらかじめ配備してありました。
その甲斐あって1911年12月14日、
遂に南極点に初到達します。
南極点におけるアムンゼン
翌1912年1月18日、
南極点に到達したスコットが見たものは、
ノルウェーの旗でした。
その下には小さな箱が埋められており、
箱の中にはアムンゼンの記録と、
スコットへの手紙が入っていました。
手紙には、
尊敬するスコットと争うことになった
苦しい胸の内が書かれていたと言われています。
また、近くには小さいキャンプが残され、
中にはスコットのために
食糧が残されていたということです。
スコットは失意の中を帰途につきますが、
途中で猛吹雪に阻まれて進行不能になり、
そのまま全滅します。
最後の手記は3月29日。
基地まで残り18キロのところでした。
一方、
白瀬は無事に帰国しましたが、
その後の生涯は、
ほぼ借金返済に費やされました。
完済までは、
20年をかけることになります。
RPGなどで、
よく「冒険」をするかもしれませんが、
これが、冒険の本当の姿です。
なお、白瀬という名は、
現在も南極観測船に
名を残しています。
名称を公募した結果、
圧倒的多数で
「白瀬」になったそうです。
南極観測船しらせ(初代)
しらせ(2代目・現役)
学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義