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HOME雑記帳(あすなろ)あすなろ205 白村江の戦い(本編)
2018.11号
今回は、先月号「白村江の戦い(前史)」の続きです。
聖徳太子の登場する少し前、蘇我氏全盛期のころまでの話でした。
倭国(日本)は、過去に朝鮮半島の南部(伽耶)を支配していた時代があったものの、結局失われます。
これが562年ということですから、蘇我氏が台頭する少し前のことですね。
しかしその後も、倭国は百済と新羅に貢ぎ物を献上させていて、ある程度の圧力はかけ続けていました。
左は、倭国が朝鮮南部を支配していた頃の地図です。
朝鮮半島三国(高句麗/こうくり・百済/くだら・新羅/しらぎ)の位置関係は、こちらで確認してください。
(前回掲載の地図と同じです)
その後、チャイナは南北朝時代から隋、唐へと変遷します。
一方の日本は、聖徳太子の時代を経て、大化の改新が始まります。
当時の朝鮮半島は、百済と新羅が小競り合いを続けながらも、倭国にはそれぞれの王子を派遣して、忠誠を誓っています。
要するに人質ですね。
しかしこれは、強大な唐の侵攻に対して、いざとなったら倭国に協力してもらうためでもありました。
朝鮮半島の三国は、互いに侵略しながらも、倭国に対しては忠誠を誓う、という構図が続いていたわけです。
大化の改新は650年で一通りの改革を終えています。
その頃の新羅は、百済と高句麗から攻められ続けた結果、唐に忠誠を誓うことで援軍を頼ろうとしていました。
一方で唐は、高句麗を攻めても落とせないので、先に南方の百済から攻略しようと考え始めたようです。
倭国はといえば、630年に遣唐使を派遣することで、唐との関係もそれなりに良好に保ってきたようです。
どこの国とも対立しない、絶妙な外交が続いていたわけですね。
しかしこの不穏な半島情勢は伝わってきたようでして、朝廷内でも百済を助けるか、唐との関係を重視するか、どうも色々と揉めたようです。
651年には、新羅を討伐しようという進言も出されたが却下された、なんて記録もあります。
また、唐の状況を窺うためか、630年に一度行かせたっきりだった遣唐使を、653年・654年と2年連続で派遣しています。
もしかしたらこれは、唐と交渉をしに行ったのかもしれません。
その次の遣唐使は、659年でした。
しかしこの遣唐使は、帰国禁止措置を受けて661年まで帰れませんでした。
というのも、この時の唐は百済討伐の準備中で、それが倭国にバレないようにしたためでした。
そして、その翌年の660年、唐は大軍を派遣して、新羅と共に百済に攻め込みます。
そこからはたった半年ほどの戦闘で、百済王を降伏させて、百済は滅亡します。
唐軍がいかに強力だったかが窺えます。
しかし、唐の真の目的は、百済ではありません。
高句麗を後ろから攻めることです。
そこで、百済を滅ぼした唐の主力部隊は、次は高句麗戦のためにさっさと北上して、現地には新羅軍だけが残りました。
さて、百済という国は、国王が降伏した時点で敗北が決定しています。
しかし、首都以外にもまだ百済軍の城は残存していて、まだあきらめない百済軍は、国の復興を狙っていました。
先述したとおり、当時の百済は王子を人質として倭国に送っています。
今回はそれが幸いして、王子が無傷で残っているわけです。
ですからこの王子を擁立すれば、百済という国は復活するというわけです。
そこで、倭国にその旨の救援を依頼します。
当時の倭国の代表は、中大兄皇子でした。
皇子は、百済を助けるという判断を下します。
そして倭国軍は百済の王子を引き連れて、2年にわたって計3回の軍を出しました。
その結果663年には、南部に駐留していた新羅軍の駆逐に成功したのでした。
しかしそれに対して、唐は援軍を派遣します。
そして663年10月、白村江における戦いで、倭国軍は唐の大軍に大敗を喫します。
百済の王子は高句麗に逃げ込んで亡命しますが、少し後に高句麗もまた唐に滅ぼされました。
さて、中大兄皇子はここで、危機を感じます。
唐は朝鮮半島を確保したわけですので、そこをベースに倭国へと追撃してくる可能性があるからです。
そこで、上陸予想地点である九州北部には城を置いて、軍を駐屯させることにしました。
この拠点の管理機関が太宰府で、そこに常駐する兵が万葉集で有名な防人(さきもり)です。
さらに、唐とは戦争回避の交渉を続ける一方で、本土決戦に備えて都を奈良から琵琶湖畔に移転して、指揮系統をまとめるべくさらなる中央集権化を強行しています。
敗因の一つに、作戦・規律の統一なしに軍事行動を展開したこともあったからです。
当時の唐を敵に回すのがどれだけヤバいことだったかは、次の地図で理解できると思います。
黄緑色が唐の最大域です。
次に即位した天武天皇は、大宝律令を完成させると同時に、倭国を日本と改めます。
これは一説には、唐と交戦した倭国とは別の国だと主張するためだったとも言われています。
同時に、唐には改めて遣唐使を送って、国交正常化を目指したのでした。
この敗戦は、日本国存続の三大危機のうちの1つだったという人もいます。
あと2つは元寇と第二次世界大戦です。
唐には敗戦したのですが、日本は内政の大改革で危機に備え、外交努力によって乗り越えることができたのでした。
学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義
―――参考資料―――
中大兄皇子/天智天皇
天武天皇(大臣無しで執務)
防人の北九州配備は、平安末期に武士団が登場するまで200年以上続いた。