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2012.08号
まずは、この絵をご覧ください。
小学六年生以上ならば教科書で見たことがあると思います。
「元寇」の絵ですね。
鎌倉時代、大陸からモンゴル帝国(元)が攻めてきました。
およそ700年前のことです。
このモンゴル襲来のことを、教科書的には元寇(げんこう)と呼びます。
→「モンゴル襲来」「蒙古襲来」と書いてある教科書もあります。
日本はその頃、名乗りを上げて一騎打ちという戦法でしたが、モンゴルは集団戦法だったために、大変な苦戦をしました。
しかし、モンゴル軍が船に引き返している夜、たまたま台風が来た為にモンゴル軍は全滅して、日本は勝つことができたのです。
……なあんて話を、聞いたことがあると思います。
もしかしたら、
モンゴル軍の弓は強力で、日本の矢の二倍も飛んだため、歯が立ちませんでした。
なんて話を聞いた人もいるかもしれません。
さて、先ほどの絵ですが、あの場面の左右には、本当はこんな様子が描かれています。
たいへんだー。
にほんまけちゃうー。
いっきうちではむりだー。
……ん?
一騎打ち?
いや、日本軍は集団で攻めていますね。
で?
苦戦?
いや、絵を見る限りでは、モンゴル軍は逃げまどっていますが。
もう少し、詳しくあたってみましょうか。
この『蒙古襲来絵詞』というのはそもそも、竹崎季長(たけざきすえなが)という武士が、自分の活躍から恩賞を貰うまでの話を描いた物です。
最初に挙げた有名な場面で、血を流した馬に騎乗しているのが、まさにその竹崎さんです。
ですからこの場面は、本人を目立たせる為に、わざと一騎だけ先頭に飛び出させて描いている可能性があります。
次に、よく言われる
「当時は『やあやあ我こそは』と名乗って戦うのが慣わしだったのだが、そんなことをしているうちに敵兵に討たれた」
ですが、これも怪しいです。
『八幡愚童訓』という書物には
日本の 戦 のように互いに名乗りあって、名を挙げて、 一人だけの勝負 と思っていたところ
(朝倉による意訳)
などというような箇所がありまして、これがその根拠となっているようです。
しかし、その原本と言われる『八幡ノ蒙古記』では、
日本の 軍 のように互いに名乗りあって、名を挙げるのは、 一命限りの勝負 と思って
となっていて、「一人の勝負」とは書いてありません。
さらに、竹崎さんの『蒙古襲来絵詞』の中には、
葦毛の馬に乗った武者が敵陣を破ってきたのが見えたので、
「どなたでしょうか」
と聞くと、
「肥後国菊池次郎武房と申す者です。そういうあなたは」
と聞けば、
「同じ国の竹崎五郎兵衛季長と言います。見ていてください」
と言って駆けていった。
(朝倉意訳)
とあります。
つまり、日本人同士で互いに名乗りあっているのであって、敵に向かって名乗りを上げているわけではないのです。
当時は、敵に突っ込む前には、友軍(味方)に向かって名乗りを上げていました。
これは、恩賞を貰う際に、互いに活躍をした証人になるためです。
『蒙古襲来絵詞』の他の場面でも、『互いに証人に立つ』という表記があります。
『八幡愚童訓』は、『八幡ノ蒙古記』を書き写すときに間違えた、と解釈すべきですね。
つまり、「モンゴル軍に向かって『やあやあ我こそは』と名乗った」の説は、
――――昔の人の書き間違いでした~。――――
終わり。
さらに『八幡ノ蒙古記』には、
ここで菊池次郎は、およそ百騎を二手に分けて、散々に駆け散らして勝負を決めた。
と、やはり武士が集団戦法をした記述があります。
ついでに。
竹崎さんの『蒙古襲来絵詞』にある、日本軍に立ち向かっている三人の蒙古兵は、他の逃げまどっている蒙古兵と装備や絵のタッチが違います。
青枠の中の三人だけ、線がちょっと太いですよね。
実はこの三人は、あとで書き加えられた絵だ、というのが現在の通説なのだそうです。
ダメじゃん教科書。
……ただ、最初から最後まで勝ちっぱなしだったというわけではありません。
蒙古軍が対馬と壱岐に上陸した時には、地元の武士では歯が立たたなかったために、相当数の日本人が虐殺されました。
『一谷入道御書』には、『一人も助かる者なし』とあります。
しかし博多に上陸してからは、――――
というよりそもそもですね、上陸作戦といえば昔も今も、まず陸地に陣を確保することから始めます。
(上陸して作る陣地のことを、「橋頭堡(きょうとうほ)」と言います)
蒙古軍は夜になったら船に帰った、ということですが、そんなのは作戦でも何でもなくて、要するに陣が作れなかったということです。
上に、「博多に上陸してから」なんて書きましたが、軍勢としては上陸できてないわけですね。
理由はもちろん、日本軍の攻撃が激しくて、陣を構築できなかったからです。
結局、蒙古軍は進軍をあきらめて、夜のうちに撤退をしてしまいました。
翌朝、日本兵が見たのは、置き去りにされた船の残骸と下っ端の兵隊達だった、という話でした。
敵は、逃げ帰ったのです。
ここまでが一回目、文永の役の話です。
風が吹いたなんて話は、どこにも書いてありません。
もう一度書きます。
――――風が吹いたなんて話は、どこにも書いてありません。――――
はい、では、二回目の弘安の役です。
この時は、日本側には防塁の石垣が造られていたので、上陸をほぼ阻止しています。
しかも今度は、積極的に敵船に乗り込んでガンガン攻め立てています。
そんな最中、今度は本当に台風が来ました。
というかですね、博多に着いたのが6月始め、そしてこの時は7月末。
すでに2ヶ月が経過しています。
この時期、2ヶ月も海にいれば、台風の1つくらいは来てもおかしくないですよね。
そして5日の間、海は荒れ続けます。
その結果、4000あった敵船は、船同士でぶつかりまくって、200にまで激減します。
ここで蒙古軍の将軍は、使える船に乗っている兵隊を下ろすと、自分たちだけで乗り込んで、さっさと逃げていってしまったのでした。
そして残されたのは、置き去りにされた下っ端の兵隊達。
――――このあたり、「大将は責任を取って腹を切る」という日本とは、文化が全く違うんだなあと感じます。
日本勢は、その後の総攻撃によって勝利します。
確かに、台風によってラクできましたが、台風が来なくても勝っていたでしょうね。
蒙古軍の敗因として、
「高麗(朝鮮)は仕方なく協力していたので、船の作りが手抜きだった」
などと言い訳している本もありますが、実は日本攻めに一番乗り気だったのは高麗王でした。
なのでこれもウソです。
あと、日本の弓は当時世界最大だった上に、弓も矢も作りが丁寧で凝っていて、軽くて強力で命中率が高い、というものでした。
また例の「てつはう」は、実は最近、当時のものが海底から引き揚げられたのですが、入れ物だけで、重さが4キロ以上もあったそうです。
敵陣に投げ込めるものではなさそうですね。
音で、馬を驚かせるのが目的だったのかもしれません。
学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義