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あすなろ130 元寇(過去記事)

2018年3月22日投稿

 

 

 

2012.08号

 

まずは、この絵をご覧ください。

 

 

小学六年生以上ならば教科書で見たことがあると思います。

「元寇」の絵ですね。

 

鎌倉時代、大陸からモンゴル帝国(元)が攻めてきました。

およそ700年前のことです。

このモンゴル襲来のことを、教科書的には元寇(げんこう)と呼びます。

→「モンゴル襲来」「蒙古襲来」と書いてある教科書もあります。

 


日本はその頃、名乗りを上げて一騎打ちという戦法でしたが、モンゴルは集団戦法だったために、大変な苦戦をしました。

しかし、モンゴル軍が船に引き返している夜、たまたま台風が来た為にモンゴル軍は全滅して、日本は勝つことができたのです。


 

……なあんて話を、聞いたことがあると思います。

 

もしかしたら、
 


モンゴル軍の弓は強力で、日本の矢の二倍も飛んだため、歯が立ちませんでした。


 

なんて話を聞いた人もいるかもしれません。

 

さて、先ほどの絵ですが、あの場面の左右には、本当はこんな様子が描かれています。

 

 

たいへんだー。
 

にほんまけちゃうー。

 

いっきうちではむりだー。

 
 
……ん?

一騎打ち?
 

いや、日本軍は集団で攻めていますね。
 
で?

苦戦?
 
いや、絵を見る限りでは、モンゴル軍は逃げまどっていますが。

 

もう少し、詳しくあたってみましょうか。

 

この『蒙古襲来絵詞』というのはそもそも、竹崎季長(たけざきすえなが)という武士が、自分の活躍から恩賞を貰うまでの話を描いた物です。

最初に挙げた有名な場面で、血を流した馬に騎乗しているのが、まさにその竹崎さんです。

ですからこの場面は、本人を目立たせる為に、わざと一騎だけ先頭に飛び出させて描いている可能性があります。

 

次に、よく言われる
 
「当時は『やあやあ我こそは』と名乗って戦うのが慣わしだったのだが、そんなことをしているうちに敵兵に討たれた」
 
ですが、これも怪しいです。

 

『八幡愚童訓』という書物には

 


日本の  のように互いに名乗りあって、名を挙げて、 一人だけの勝負 と思っていたところ

(朝倉による意訳)


 

などというような箇所がありまして、これがその根拠となっているようです。

 

しかし、その原本と言われる『八幡ノ蒙古記』では、

 


日本の  のように互いに名乗りあって、名を挙げるのは、 一命限りの勝負 と思って


 

となっていて、「一人の勝負」とは書いてありません。

 

さらに、竹崎さんの『蒙古襲来絵詞』の中には、

 


葦毛の馬に乗った武者が敵陣を破ってきたのが見えたので、

「どなたでしょうか」

と聞くと、

「肥後国菊池次郎武房と申す者です。そういうあなたは」

と聞けば、

「同じ国の竹崎五郎兵衛季長と言います。見ていてください」

と言って駆けていった。

(朝倉意訳)


 

とあります。

 

つまり、日本人同士で互いに名乗りあっているのであって、敵に向かって名乗りを上げているわけではないのです。

 

当時は、敵に突っ込む前には、友軍(味方)に向かって名乗りを上げていました。

これは、恩賞を貰う際に、互いに活躍をした証人になるためです。

 

『蒙古襲来絵詞』の他の場面でも、『互いに証人に立つ』という表記があります。

『八幡愚童訓』は、『八幡ノ蒙古記』を書き写すときに間違えた、と解釈すべきですね。
 
 
つまり、「モンゴル軍に向かって『やあやあ我こそは』と名乗った」の説は、
 
――――昔の人の書き間違いでした~。――――
 
終わり。
 
 
さらに『八幡ノ蒙古記』には、

 


ここで菊池次郎は、およそ百騎を二手に分けて、散々に駆け散らして勝負を決めた。


 

と、やはり武士が集団戦法をした記述があります。

 

ついでに。
 

竹崎さんの『蒙古襲来絵詞』にある、日本軍に立ち向かっている三人の蒙古兵は、他の逃げまどっている蒙古兵と装備や絵のタッチが違います。

青枠の中の三人だけ、線がちょっと太いですよね。

 
実はこの三人は、あとで書き加えられた絵だ、というのが現在の通説なのだそうです。

ダメじゃん教科書。

 
 

……ただ、最初から最後まで勝ちっぱなしだったというわけではありません。
 

蒙古軍が対馬と壱岐に上陸した時には、地元の武士では歯が立たたなかったために、相当数の日本人が虐殺されました。

『一谷入道御書』には、『一人も助かる者なし』とあります。

 

しかし博多に上陸してからは、――――

 
 
 

というよりそもそもですね、上陸作戦といえば昔も今も、まず陸地に陣を確保することから始めます。
(上陸して作る陣地のことを、「橋頭堡(きょうとうほ)」と言います)

 

蒙古軍は夜になったら船に帰った、ということですが、そんなのは作戦でも何でもなくて、要するに陣が作れなかったということです。

上に、「博多に上陸してから」なんて書きましたが、軍勢としては上陸できてないわけですね。

理由はもちろん、日本軍の攻撃が激しくて、陣を構築できなかったからです。

 

結局、蒙古軍は進軍をあきらめて、夜のうちに撤退をしてしまいました。

翌朝、日本兵が見たのは、置き去りにされた船の残骸と下っ端の兵隊達だった、という話でした。

 

敵は、逃げ帰ったのです。

 

ここまでが一回目、文永の役の話です。

風が吹いたなんて話は、どこにも書いてありません。

 

もう一度書きます。

 

――――風が吹いたなんて話は、どこにも書いてありません。――――

 
 
 

はい、では、二回目の弘安の役です。

 

この時は、日本側には防塁の石垣が造られていたので、上陸をほぼ阻止しています。

しかも今度は、積極的に敵船に乗り込んでガンガン攻め立てています。

 

そんな最中、今度は本当に台風が来ました。
 

というかですね、博多に着いたのが6月始め、そしてこの時は7月末。
すでに2ヶ月が経過しています。
この時期、2ヶ月も海にいれば、台風の1つくらいは来てもおかしくないですよね。

 

そして5日の間、海は荒れ続けます。

その結果、4000あった敵船は、船同士でぶつかりまくって、200にまで激減します。
 
ここで蒙古軍の将軍は、使える船に乗っている兵隊を下ろすと、自分たちだけで乗り込んで、さっさと逃げていってしまったのでした。
そして残されたのは、置き去りにされた下っ端の兵隊達。
 
――――このあたり、「大将は責任を取って腹を切る」という日本とは、文化が全く違うんだなあと感じます。
 

日本勢は、その後の総攻撃によって勝利します。

確かに、台風によってラクできましたが、台風が来なくても勝っていたでしょうね。

 

蒙古軍の敗因として、

「高麗(朝鮮)は仕方なく協力していたので、船の作りが手抜きだった」

などと言い訳している本もありますが、実は日本攻めに一番乗り気だったのは高麗王でした。

なのでこれもウソです。

 

あと、日本の弓は当時世界最大だった上に、弓も矢も作りが丁寧で凝っていて、軽くて強力で命中率が高い、というものでした。

 

また例の「てつはう」は、実は最近、当時のものが海底から引き揚げられたのですが、入れ物だけで、重さが4キロ以上もあったそうです。
 
敵陣に投げ込めるものではなさそうですね。

音で、馬を驚かせるのが目的だったのかもしれません。

 

学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義