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HOME雑記帳(あすなろ)あすなろ172 桜田門外の変(過去記事)
2016.02号
前回の忠臣蔵に引き続き、今回は桜田門外の変です。
言い訳第二号です。
もう一つの雪の朝の事件、桜田門外の変は、幕末の頃に起こった事件でした。
忠臣蔵で殺された吉良が旗本だったのに対して、桜田門外で殺害された井伊直弼は、江戸幕府の大老でした。
大老とは、時の幕府の最高権力者で、言ってみれば首相のようなものですので、首相暗殺レベルの事件です。
この事件は、歴史の教科書的には、
「井伊直弼はアメリカとの日米修好通商条約を独断で結んで、それに反対する吉田松陰らを安政の大獄で処罰した。そこで反感を買って殺された」
というようなことになっています。
でも、もう少し詳しく見ていきます。
本当は、もっと複雑で根が深い話です。
最初のきっかけは、ペリーの一回目の来航でした。
この時の将軍は第十二代家慶(いえのぶ)だったのですが、ペリー来航時には、もうさっさと跡継ぎを決めないとやばい状態だったのです。
しかし、問題がありました。
次期将軍候補である家定(いえさだ)は、よく言えば病弱、悪く言えば役に立つ見込みがない人物だったのです。
脳性麻痺だったとも言われていまして、会話はできたようですが、後には廃人同様だったこともあったようですから、確かに将軍が務まるような人物ではなかったようです。
ともかく、来年にはペリーに何らかの返事をしなければいけないという局面で、家定に任せるわけにはいかないと主張する人物が現れました。
水戸藩の徳川斉昭(なりあき)です。
彼の一推しは、一橋家に養子に出した慶喜(よしのぶ)です。
後の十五代将軍ですね。
確かに慶喜は、優秀なことで有名だったようです。
しかし斉昭は、老中の阿部正弘に「次には慶喜にするから」と説得されて、引き下がります。
そして、家定が第十三代将軍に就くこととなりました。
家定は先述の通りの人物でしたので、跡継ぎの男子を儲けることは無理だということが明らかでした。
そこで、徳川斉昭を中心に、今度こそ慶喜にしなければという運動がおこります。
今回は、先述の老中阿部正弘も賛同しています。
しかし、本来の後継者順では、次は家茂(いえもち)のはずでした。
跡継ぎ争いによる騒乱は、日本史上で何度も起こっています。
古くは飛鳥時代の壬申の乱が、その後も平安時代の保元の乱、室町時代の応仁の乱と、その度に内戦が起こり、政治が大混乱を来(きた)しています。
しかし徳川家康が、ここで一つの規則を定めます。
それが、長子相続というものです。
現在の天皇家の即位順と同じものですので、今からすれば至極当たり前のようですが、戦国時代までは、家督を継ぐのは長子とは限りませんでした。
戦国武将を調べるとわかります。
家康は三代将軍を定める際に、もっと優秀とされていた人物を差し置いて、家光を指名します。
この前例があったからこそ、その後何百年も、江戸では後継者争いが起こらなかったのです。
しかし今回の徳川斉昭による慶喜推しは、これに反するものでした。
しかしここで、この派閥を支えていた老中阿部正弘が急死します。
すると、反斉昭派が巻き返しを図ります。
さらにこのころ、ハリスが日米修好通商条約の締結を迫っていて、将軍家定の病状はいよいよ重体となるし、開国か攘夷か、跡継ぎは誰がいいのか、大奥まで巻き込んで、城内は大混乱となります。
そんな時、それをまとめる大老として指名されたのが、井伊直弼でした。
彼は、就任二ヶ月後には後継を家茂と定めます。
実を言うと、直弼自身は井伊家の十四男で、父親が亡くなってから自分に家督が回ってくるまで、十五年間を自宅の離れで耐えています。
そんな直弼ですから、後継の順序に厳しいのは、ある意味当然だったともいえます。
また、現将軍の家定自身も、どうも慶喜には将軍を譲りたくなかったようです。
イケメンでモテモテなのが気にくわないとか。
いやこれマジで。
ともかく、残るはアメリカとの条約です。
直弼は、各大名に意見を聞いて回った結果、開国することはやむを得ないが、天皇の勅許(ちょっきょ)を取る必要がある、という結論に達しました。
天皇云々は、反対派を納得させるためのものでしょうね。
だって別に、鎖国の時は天皇の許可なんて取ってないし、幕府は朝廷を実効支配していて、朝廷は幕府に逆らえない状態だったわけですから。
それでも一応は筋を通すために朝廷に行くのですが、天皇は勅許を出さずに
「衆議を尽くした上で再度奏聞(そうもん)せよ」
なんて言います。
要は、もっと話し合ってからもう一回来いというわけです。
ところが、条約交渉の担当者は直弼に、
「どうしてもの時は、結んじゃってもいいよねいいよね」
と言ってきます。
それに対して直弼が
「その時は仕方ないけど、でもできる限り粘れよ」
と答えると、担当者はその日のうちにさっさと条約に調印してしまいます。
ひどいお役所仕事です。
直弼からしてみれば望まぬ結果となってしまったのですが、それでも上司の責任です。
ちなみに、現在の歴史の教科書では、直弼が反対派を無視して条約を結んだことになっています。
さて、反対派の斉昭はといえば、跡継ぎ問題で二連敗したあと、条約問題でも言い分は通らず、しかも直弼の奴は天皇の勅許ナシでやりやがったときて、もう怒り心頭で江戸城に怒鳴り込みに行きます。
しかし、定められた登城日ではなかったのに勝手に来たということで、逆に謹慎を食らってしまいます。
すると今度は、それに抗議する島津藩は兵を引き連れて江戸に向かおうとします。
これは藩主が急死したので中止されましたが、水戸藩は水戸藩で、幕府を通さずに裏ルートで朝廷にチクりに行きます。
以上の行為は、幕府に対する裏切り行為で、反乱の一歩手前です。
というか、ほぼ反乱ですね。
そこで幕府は、そういう勢力を次々と捕らえて、死罪、強制隠居、謹慎などの処分を与えていきました。
これが安政の大獄です。
安政の大獄といえば、教科書的には「吉田松陰が処刑された」ですが、ここにも誤解があります。
鎖国のルールとして、日本人の海外渡航禁止があります。
しかし松陰はこれを破って、ペリーの船でアメリカに行こうとしました。
そしてその件で捕らえられると、今度は老中暗殺計画なんてのをベラベラとしゃべり始めました。
だから死刑になったのです。
直弼とかそんなのは関係なく、そりゃ死刑でしょ普通。
ともかく、このように直弼によってギッチギチに追い詰められた水戸藩は、ついに逆ギレをおこします。
雪の早朝、江戸城の桜田門の前で、登城中の井伊直弼は水戸藩士に襲われて殺害されました。
桜田門外の変です。
結局、悪いのは誰だったのでしょうか。
学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義