2018年8月

あすなろ201 鳥の名の由来

あすなろ

 

 

 

2018.07号

 

私の自宅は、筑波山に近い田園地帯です。

 

周囲では色々な鳥の鳴き声も聞こえてくるのですが、今年になって、初めて聞く鳴き声がありました。

我が家のすぐ裏で、かなり大きい声で鳴いています。

ガチョウに近いような鳴き声ですが、それとも違います。

 

ウチの近辺で見かける鳥で、鳴き声を知らない鳥で、声の大きそうなものといえば……サギかキジあたりでしょうか。

 

調べてみると、キジで正解でした。

今はyoutubeで検索すれば、鳴き声も簡単にわかってしまうので便利なものです。

 

キジは、ニワトリに近い仲間です。

同じ仲間には、ウズラ、クジャク、コジュケイ、ライチョウなどがいます。


上:キジ 下:コジュケイ


だいたいどれも「ニワトリ型」の体型をしていて、飛ぶよりも走る方が得意な鳥です。

 

このうち、コジュケイは以前からずっと我が家の周囲を鳴き回っていて、馴染みの存在でした。

で、このコジュケイがまた、うるさいんですよ。

ニワトリ並に声がでかい上に、

「チョットコイチョットコイチョットコイチョットコイ……」

ってまた長いんですわ。

これが終わった後も、しばらくの間

「ギャア!・・・・・・ギャア!・・・・・・」

と繰り返します。

 

てなわけで、声のでかそうな鳥なら、同じ仲間のキジかなあ、なんてヤマが当たったわけです。

 

さて、そんなキジの鳴き声、私が聞いた感じでは、

「キェッ! キェッ!」

でした。

桃太郎などではよく「ケンケン」と鳴くとなっていますが、んー、まあそれもありかなあ、という程度の感じがします。

 

以前、日本人が虫の声を聞き分けられるのは、その鳴き声を日本語に落とし込んでいるから、なんて話を書いたことがあります。

あすなろ166 虫の声の聞こえ方?

 

スズムシはリーンリーン、ヒグラシはカナカナ、クツワムシはガチャガチャと、よく鳴き声が擬音語でされていますが、これを「聞きなし」または「聞きなす」と言います。

 

虫ではこの程度ですが、これが鳥の聞きなしになると、例えばフクロウは「五郎助奉公(ごろすけほうこう)」、ホトトギスは「天辺欠けたか(てっぺんかけたか)」、ホオジロに至っては「一筆啓上仕り候(いっぴつけいじょうつかまつりそうろう)」などと聞きなされます。

……と、書き出してはみたものの、本当にそう聞こえるのかと言われると、ちと怪しいものがあります。

 

実際に聞いてみるとわかるのですが、ホトトギスは「ホトトギス」と鳴きながら飛びます。

正確には、「ホットットトギス! ホットットトギス! トトギス! トトギス!」といった感じでしょうか。

これが、ホトトギスという鳥の名の由来です。

いやこれホント。

 

鳴き声を呼び名にすることは、別に変なことではありません。

今でも、「カナカナ鳴いてたよ」といえばヒグラシが鳴いていたとわかりますし、ウグイスという鳥のことをホーホケキョと呼んでも普通に通じるはずです。

昔の日本人は、そうやって鳥の名前をつけていったのです。

 

そう思って聞くと、ウグイスも「ウーグイス!」と聞こえてきませんか。

で、実際これが正解なんです。

もうちょっと厳密に言うと、「ウーグス!」から、「うぐす」と呼ばれていました。

 

なお、ウグイスの鳴き声が「ホーホケキョ」から「法華経」と聞きなされたのは江戸時代以降のことで、歴史的には比較的最近です。

 

鳴き声から付けられた名前の鳥といえば、カッコウなんて典型例もあります。

郭公という字で書くこともありますが、完全に当て字です。

英語でもcuckooクックーと呼ばれています。

 

そう考えていくと、カラスの「カ」も鳴き声っぽい感じがしませんか。

それで正解です。

 

そこで語源辞典を引いてみると、残った「ラス」のうち、「ス」は、「鳥の名に多く見られる接尾語である」なんて書いてあります。

ところが、へーそうなのかー、と思って読むと、そこで挙げられている接尾語の例は、ウグイスとホトトギスなんですよね。

先に書いたとおり、この2つは鳴き声そのものを名前にしたと思われますので、たまたまスに揃っただけなんじゃないのかなあ、なんて少し疑っています。

 

それはともかくとして、万葉集にはカラスの鳴き声が「ころく」と表現された歌があるということです。

つまり、当時はカラスの鳴き声を「ころく」と聞きなしていて、その後「ころ」が「から」に変化して、接尾語の「す」がついた、という説が有力なのだそうです。

 

でも「す」は……。

まあいっかー。

 

獣の古名が「しし」なんだし、鳥が「す」もありとしましょう。

納得いってないけど。


参考:
肉=しし=食べられるケモノ
「い」のしし=いのしし
「か」のしし=かじし=しか


 

ところで、最初に鳴き声を書いたキジも、名前は鳴き声由来です。

古名は「きぎし」。

 

江戸時代に書かれた文献には、


キギシのキギってのは何のことか。

今じゃあケンケンって言ってるけど、昔はキイキイって聞いてたんだよね


なんて記述があります。

この「きぎし」が短く転訛して、キジになったということです。

 

スズメとツバメ(古名はツバクラメ)の「スズ」と「ツバ」も、鳴き声からきています。

 

ヒバリは「日晴る」から来ているという説がありますが、やはり鳴き声からという説もあります。

 

鳴き声由来の鳥の名前は、もっと調べれば他にもあるかもしれません。

 

さて。

ここからは名前の話ではないのですが、ホトトギスについて、ついでに少々。

 

ホトトギスといえば、すぐに連想するのが「鳴かずんば~」というやつですよね。

あの例の、信長秀吉家康のやつですよ。

若者には「鳴かぬなら~」と言った方がわかりやすいでしょうか。

 

あの句は、最初は子供向けの本で見た方がほとんどだと思います。

ですから大抵、そこには挿絵(さしえ)がついています。

ところで、どんな絵がついていましたか?

 

私がこれまでに見たものは、お城か屋敷の庭先か座敷で、殿様が座っていて、その前にはかごに入った鳥がいる、という図でした。

 

んーとですね……。
 

多分ですが、あくまで憶測ですが、この手の絵を描いた人は、ホトトギスをウグイスか何かと勘違いしているんじゃないかと思っています。

 

確かに、ホトトギスの大きさってのは大したことはなくて、かごに入っちゃう程度なのです。

しかし、まず、鳴き声の大きさは半端ないです。

セミの比ではありません。

相当遠くまで響きますし、声自体がかなり鋭いです。

ですから、殿様の目の前で本当に鳴き始めたら、はっきりいって大変なことになると思います。
マジで耳塞ぐレベルです。

 

さらに、この鳥は基本的に、飛びながら鳴きます。

もし姿が見えることがあるなら、あっちの方から鳴きながら頭の上を通り過ぎて、反対側へ飛び去っていく、というのが、現実のホトトギスに近いシーンでしょう。

 

ですから、もし「鳴かずんば」の挿絵を描くなら、野山に出かけた殿様を描くべきだと思います。

 

学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義

あすなろ126 朝鮮出兵(過去記事)

あすなろ

 

 

 

2012.04号

 

前回に引き続き、ウチの三歳児の本「ビジュアル版戦国武将大百科」からのネタです。

 

「合戦編」に、豊臣秀吉の朝鮮出兵についての記述がありました。

秀吉の朝鮮出兵は、2回ありまして、1回目は文禄の役、2回目は慶長の役と呼ばれています。

 

で、その本によると、まず文禄の役は、

 

「当初、朝鮮側は戦の準備ができておらず、」

 

慶長の役では、

 

「文禄の役では平壌にまで進出した日本軍が、慶長の役では漢城の手前で足止めされてしまったのだ」

 

と書いてあるわけですが、んーと、残念ながら、ちょっと違うんですよねー。

 

子供向けの本にいちいち目くじらを立てるのもどうかしているとは思いますが、これでは日本軍の負け戦みたいで大変不本意ですので、あえてこの場をお借りしたつっこみを入れてみようと思います。

 

朝鮮に進軍する前に、秀吉は何度も服属せよとの警告を発していました。

その後、拒絶する様子を見て、進撃拠点となる名護屋城を建造しています。

そしてそれを見ていた朝鮮側も、北方に配備していた軍を日本側に配備して、水軍も半島南端に集めています。

さらに、宗主国の明に対して

「沿岸守将に対して厳重警戒を下命しました。

日本から侵犯を受ければ撃滅いたします」

という使節を送っています。

つまり、戦の準備は十分にできていたのです。

 

しかし朝鮮軍は、日本軍が上陸してからは連戦連敗で、敗走を続けるのみでした。

その理由としては、

 

・歴史的に朝鮮は、歴代の中国王朝の属国となることで生き延びてきたために、大きな対外戦争が長い間起こっていなかった

 

・文化的にも「体を動かすのは身分の低い者のすること」という考えがあるので、役人は兵を蔑み、軍の訓練をするにも指導者がいなかった

 

・前項と同じ理由により、職人が育たなかったので工業が全く発達せず、あらゆる武器の性能が非常に低く、鉄砲もろくに持っていなかった

 

という朝鮮に、

 

・日本では職人技をもつ技術者が多かった

 

・そのために鉄砲の命中精度および威力はオリジナルのポルトガル製を超えていて、さらに大量生産によって、当時は世界一の鉄砲保有国だった

 

・同じ理由により、日本刀も世界の他地域の剣に比べて抜群に高性能で、輸出されるほどだった

 

・日本は長く戦国時代であったために、兵は実戦で鍛え上げられた者ばかりの上、高度な戦術も数多く持っていた

 

・遠征隊の一部兵士にとっては、元寇の際に朝鮮人が対馬で行った虐殺の恨みを晴らす、という意味合いもあった

 

というような軍が大量に攻め込んで行くわけですから、そりゃ勝ちますわな。

 

釜山に上陸した日本軍は朝鮮軍の城を次々と陥落させて、文字通り破竹の勢いで北上して行き、上陸からたった二十日余りで、首都である漢城をあっさりと陥落させます。

 

ちなみに、上陸地点の釜山から漢城までは、およそ500キロ。

江戸時代、東海道五十三次の500キロは、通常15日ほどで旅をしたと言われています。

さらに、江戸時代に朝鮮半島に旅をした西洋人の記録によれば、朝鮮半島はどこも山がちで、ろくな道がないとされています。

そこを鎧と武器でフル装備した兵士が進んだことを考えると、朝鮮軍の抵抗はほとんど無いようなものだったと考えてもいいでしょう。

 

漢城にいた朝鮮王は、近づいてくる日本軍の報を受けて、さっさと逃亡してしまいます。

その家臣はといえば、王宮の家畜を盗んで、王よりも先に逃亡しています。

そしてそれを見た住民が、王宮に対して放火と略奪をした為に、日本軍が到着したころには廃墟があるだけでした。

 

なお、朝鮮の被支配層はそれまで、働くことがバカバカしくなる程の搾取を受けていたのですが、秀吉は軍に対して

「占領地における放火の禁止、民衆の殺戮や捕獲の禁止、飢餓に陥った民衆を救済すべきこと」

などを命じています。

ですから日本軍は、朝鮮住民にとって解放軍に見えたようです。

漢城に到達する頃には、軍の半分くらいが朝鮮の民衆だったという記録も残っています。

 

日本軍はさらに北進、平壌まで到達しました。

ここで和平を呼びかけますが、朝鮮軍が応じないために、平壌を陥落させます。

その後、明へ逃げ延びた王の依頼を受けて明軍が到着しますが、一度は日本軍が撃退します。

 

しかし明軍が城の食料庫に火を放ったために、日本軍は漢城まで退却します。

その漢城付近の食糧倉庫も焼かれてしまったので、日本軍は明軍と和平交渉を始め、釜山まで引き上げました。

ただし、平壌から漢城へ戻る会戦では、日本軍は明軍に大勝しています。

 

文禄の役が失敗したのは、食料などが奥地まで十分に運べなかったのが主要因でした。

陸路は道が悪く、海路も船が小さかった為に、朝鮮水軍の妨害を突破できませんでした。

 

そこで、続く慶長の役では、大型船を用意して朝鮮水軍をほぼ壊滅させています。

よく聞く「李舜臣将軍」はこれ以降、日本水軍にろくに手を出せなくなります。

また日本軍は、南部に留まり、「ヒットアンドアウェイ」で敵軍の消耗をさせて、その後一気に進攻するという作戦に変えたようです。

 

この方針は、秀吉が出した命令書からも見ることができます。

つまり日本軍は「足止め」されたわけではなくて、敢えて進まなかったのです。

敵軍の将が、日本軍の追撃が無いことを罠ではないかと疑ったという記録も残っています。

その後も日本軍は、攻めて引き上げ、攻められて撃退、を繰り返します。

 

ただ一度だけ、建築中で食料を運び込む前の城を攻められたときに、食糧難で危なかったことがありました。

しかし援軍の到着によって撃退に成功。

さらに追撃によって数多くの敵兵を討ち取り、最終的には日本軍の損害が1100人に対して、明・朝鮮軍の損害は20000人という圧勝でした。

 

その後の会戦でも、

「日本軍13000人対敵軍55000人の戦いにおける日本の損害がほとんど無し」

とか、

「島津隊7000人が30000人の敵兵を討ち取る」

とか、ほぼ無敵状態でした。

最後は明軍は、遠巻きに眺めるしかなかったと書かれています。

 

その後、秀吉の死去によって日本軍は撤退するのですが、それでも豊臣家にはまだ十分な資金が残っていました。

最強ですね。

 

一方、明は、朝鮮派兵による消耗によって、滅亡への道を辿ることとなるのでした。

 

学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義

あすなろ105 イースター島(過去記事)

あすなろ

 

 

 

2010.07号

 

ここに以前(No.101_2010/03)書いたとおり、「霊が見える」などと言う嘘つき野郎は大嫌いですが、「古代文明の謎」などの「超科学」は、かなり好きです。

この手の話は、基本的には人に迷惑をかけませんからね。

 

ただ、たまーに「我々はかつて世界を支配した優秀な民族」「人類の発祥の地は我が国」などと、どう考えてもあり得ない話を始める困った国民もいますけど、こういうのは超科学とはいいません。

(どことはいいませんけど、こっちの方に度々ミサイルを撃ってくる独裁国と、そのすぐ南にある国のことです)

 

そして今、中二の英語に、イースター島だのモアイだのが出てきてしまいましたので、ついモアイの話をすることにします。

 

イースター島といえばモアイ、モアイといえばイースター島。

イメージ的には、いかにも謎の古代遺跡という匂いをプンプンさせていて、ナスカの地上絵やストーンヘンジなどと同列に語られることが多いのですが、実はそんなに「古代」のものではありません。

モアイ信仰は、10世紀くらいから17世紀あたりまでと言われていますから、日本で言ったら鎌倉から江戸時代初期までですね。

 

イースター島は、よく「絶海の孤島」と呼ばれるとおり、周りに全く他の島がありません。

一番近い隣の島まで400㎞以上、人が住む島までは2000㎞も離れています。

ですから、他の島との交流はほとんど無かったことでしょう。

周囲は海だけですから、耕作する他に、木で削りだしたカヌーで漁をして暮らしていました。

また、人種的・文化的には、ポリネシア文化圏だとされています。

 

……という所まで書いて、念のために調べていたら気づいたのですが、ポリネシアという言葉は、中学生用の地図帳には載ってないんですね。

一般用語ではないのでしょうか。

 

ポリネシアとは、ハワイとニュージーランドを結んだ線よりも東側一帯に広がる島々のことです。

ハワイ、ニュージーランド、イースター島を結んだ三角形が、おおよその位置と考えてもいいそうです。

マゼランやクックの航海の話を読むと、必ずポリネシアという言葉が登場しますので、知っていてもいいと思います。

 


ポリネシアン・トライアングル
ポリネシア文化圏を表す指標
東端の「ラパ・ヌイ」がイースター島


 

モアイは、そんなポリネシアの祖先信仰の対象として生まれました。

この島からは、凝灰岩(ぎょうかいがん)が多数産出します。

凝灰岩は、原始的な道具でも加工が容易であるため、これを切り出して作られました。

 

最初期のモアイは、全身の座像で下半身もちゃんと作られています。

しかし、それが何百年も経つうちに、下半身が省略され、顔が強調され、いわゆるモアイの姿に変わっていきます。

 


初期のモアイ

足まで作られている



上:中期のモアイ 下:後期のモアイ

長い顔、深い眼窩、長い鼻、長い耳などが特徴


 

作られたモアイは、村の周囲の祭壇の上に、村に向けて立てられていました。

モアイが立てられた祭壇の下からは、近年、多数の人骨が発見されていて、モアイは墓標の一種ではないかという説が有力になっているそうです。

 

モアイは山で切り出され、村の周囲まで運ばれました。

さらに、高い祭壇の上に乗せられたわけですが、それは20tから80tもある石の塊です。

その高さは、平均的なものでも3mを超え、ものによっては7m級のものもあります。

これをどうやって運んで立てたのか、それには未だに諸説があります。

 

一般的には、木でソリを作って斜面を滑らせた、という説があります。

また、モアイは山から歩いてきたという島の伝承からヒントを得て、直立させた状態で運んだのではないか、という仮説も立てられています。

 

イースター島の地層を調べていくと、かつては椰子(ヤシ)の大木に覆われた島だったことがわかっています。

しかし、現在では草原が広がるばかりで、大木など一本も生えていません。

これは、人口増加とモアイ製造によって森林が乱伐され、全て使い尽くされてしまったためと言われています。

 

大木を失ってからは船が作れず、釣り道具すらままならず、最後は燃料にも事欠いて、一説によると食人をするところまで追い込まれていたようです。

 

そうなると、モアイを作って平和に暮らすどころではありません。

限られた耕作地や漁場を巡って、島内では争いが絶えなくなり、敵対する村のモアイ像を倒し合う「モアイ倒し戦争」が起こります。

 

1722年、オランダ人が西洋人として最初にイースター島に上陸したときには、1000体を超えるモアイがあり、島民は祈りを捧げていました。

1744年、イギリス人冒険家クックは、数々の破壊されたり倒されたりしたモアイを見ていますが、まだ半数ほどは立っていたそうです。

そして伝承によると、1840年、最後のモアイが倒されました。

 

同じ頃、ペルー政府によって住民が奴隷として連れ出されたり、同時に天然痘が外部から持ち込まれたりして、島民の数はさらに激減します。

1872年には、わずか111人(田舎の小学校1つ分)にまで減っていました。

 

現在の住民は、タヒチへの奴隷狩りから帰ってきた人達の子孫であるため、現在では当時ここで話されていた言語すらわかりません。

かつては独自の文字も木材に書かれたいたようですが、そのほとんどが燃料や釣り道具として消耗されて、今では解読不能です。

 

こうして、一つの文化が断絶しました。

この島には、こんな壮絶な歴史があるのです。

 

ところで、倒されたモアイは、1990年代まで全てそのままでした。

しかし、日本のクレーンメーカーであるタダノが、クレーンを持ち込んでモアイの引き起こしや修復をして、使用済みクレーンを寄贈しています。

 

ありがとうタダノ。

ありがとう日本の人。

 

学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義

あすなろ101 邪気眼(過去記事)

あすなろ

 

 

 

2010.03号

 

今回は、「面白ネタ」です。

いつもとは違って、全く役に立たない話です。

 

(引用文はネット書き込みからコピー・原文ママ)

 

「中二病」という言葉があります。

タレントの伊集院光が作った言葉らしいのですが、主に思春期の男子が、聞きかじった知識で

「みんな世の中が悪い」

「大人は汚いし、何もわかっちゃいない」

などと自分に酔ってしまう現象のことを指します。

それが「発症」するのが中二くらいだから、ということで、そのネーミングセンスには感心します。

 

確かにこのくらいの年頃は、自分が周囲の友人よりも、一歩先に進んでいることを主張したがるものです。

ワルを気取るのもその一つですし、逆に妙にインテリぶったり、むやみに大人に反抗したりします。

他にもなんか、無闇にかっこつけちゃったりとか。

 

中二病という言葉が流行しだしてからは、女子用に「小六病」という言葉も生まれました。

中二から発症する男子に対し、女子は小六から始まるらしいです。

確かにそうかも。

 

私も例外に漏れず、そういう時期を過ごしたこともありました。

私の場合は、親にあまり反抗しなかった代わりに、学校や教師関係にはかなり反抗していました。

お陰で教師には嫌われていましたので、通知票は燦々(さんさん)たるものでしたが。

 

と、ここまでは、「普通の」反抗期です。

しかし、これを変にこじらせると、ひどいことになる場合もあります。

 

それが、「邪気眼」です。

 

 


中学の頃カッコいいと思って、怪我もして無いのに腕に包帯巻いて、突然腕を押さえて

「っぐわ!・・・くそ!・・・また暴れだしやがった・・・」

とか言いながら息をを荒げて

「奴等がまた近づいて来たみたいだな・・・」なんて言ってた

クラスメイトに「何してんの?」と聞かれると

「っふ・・・・邪気眼(自分で作った設定で俺の持ってる第三の目)を持たぬ物にはわからんだろう・・・」

と言いながら人気の無いところに消えていく

テスト中、静まり返った教室の中で

「うっ・・・こんな時にまで・・・しつこい奴等だ」

と言って教室飛び出した時のこと思い返すと死にたくなる

柔道の授業で試合してて腕を痛そうに押さえ相手に

「が・・・あ・・・離れろ・・・死にたくなかったら早く俺から離れろ!!」

とかもやった体育の先生も俺がどういう生徒が知ってたらしくその試合はノーコンテストで終了

毎日こんな感じだった

でもやっぱりそんな痛いキャラだとヤンキーグループに

「邪気眼見せろよ!邪気眼!」とか言われても

「・・・ふん・・・小うるさい奴等だ・・・失せな」

とか言ってヤンキー逆上させてスリーパーホールドくらったりしてた、そういう時は何時も腕を痛がる動作で

「貴様ら・・・許さん・・・」

って一瞬何かが取り付いたふりして

「っは・・・し、静まれ・・・俺の腕よ・・・怒りを静めろ!!」

と言って腕を思いっきり押さえてた

そうやって時間稼ぎして休み時間が終わるのを待った

授業と授業の間の短い休み時間ならともかく、昼休みに絡まれると悪夢だった


 

 

……はい、これが邪気眼です。

 

同じような、女子の例もありますよ。

 

 


中学生の頃、妹は二重人格だった。

なんでも、火を見ると「影羅(エイラ)」という魔族の人格が現れるそうで、真っ暗な部屋の中で唐突にマッチを擦っては、

「……ヘヘ、久しぶりに外に出られた。この小娘は意思が強すぎて困るぜ(笑)」

などと乱暴な口調で叫んだりしていた。

ある日、夕食の時に「影羅」が出たことがある。突然おかずの春巻きを手掴みでムシャムシャと食べ始めて、

「久々の飯だぜ(笑)」と言った。

食べ物関係のジョークを一切許さない母が、影羅の頭にゲンコツ振り落とすと影羅は涙目になっておとなしくなった。

それ以来、食事時に影羅が出たことは無い。

そして別人格とやらは、妹が高校に入った辺りでパタリと出なくなった。

最近になって、大学生になった妹にその頃のことを尋ねたら、クッションに顔を埋めて、手足をバタバタさせてのた打ち回っていた。


 

 

もちろん、ここまでくると極端な例でしょう。

しかし、こんなのはどうでしょう。

 

 


有りがちだが、小学校の頃霊感少女を気取っていた。

小学校3、4年の頃だったと思う。

写生の授業で屋上に行くことになると「頭が痛い…ここは悲しい気持ちで溢れてる…」と今にも泣きそうな振りをしたり 図書室が閉められたあとに、友達と下校中に

「あれ?図書室から誰か見てる。何組の子かな」と誰もいない窓を指差し友達をビビらせたり

そして幼なじみも「見える」と言い始め、二人で「悪霊からみんなを守ろう」なんて話をして盛り上がっていた。

(中略)

中学にあがって別の学校に進学した当時の同級生と塾で再会し、

「あんた、幽霊が見えるとか言ってたよねー」

とみんなの前で暴露された。

咄嗟に「あれは幼なじみに話し合わせてただけだよ」

と、幼なじみにぬれぎぬを着せた。


 

 

そうそう、こういう子って時々いますよね。私の同級生も、コックリさんなんてやってましたけど、今、その当時の事を尋ねたら、なんと答えるでしょうか。

 

 


中2の頃まさに中2病だった

霊感があると気取ってクラスメイトの守護霊を占った。

勿論デタラメ。

その子のイメージから適当に

「中世の貴族」「平安の貴族」「ピエロ」など

ふと教室の隅を見つめて「あそこに邪悪な何かがいる…」

授業中にまわってきた遊びの誘いの手紙にも

「今日は雨だから…エナジーが…ウッ(←漫画の効果音みたいな書き文字)」

小さな巾着に透明のビー玉を入れ「銀水晶」と称して持ち歩き、休み時間ごとにトイレで読経

でも閉めは「ジーザスッ!!!」

やがて自分と同じように霊感を主張する子が現れてお互いの霊に関する解釈の違いで衝突、敗北してやっと目が覚めた

怖いのは、抜けるまでは本気で霊感がある気になっていたことだ…


 

 

さて、ここで注目すべきは、最後の文です。

 

本当に「霊感がある気になっていた」ということは、この「衝突」が無ければ、大人になってもそのままだった可能性があります。

そしてそのまま、いい歳になってもまだ中二病のままで覚めない人が、実際にいます。

 

私は、三番目の子供を生後5日で亡くしました。

で、それをどこからか聞いたカミサンの患者さんが、ウチの上の子を見て、したり顔で

「亡くなったお子さんは、お兄ちゃんと一緒に遊んでいるよ」

と言ったそうです。

 

こういうの、マジで殺意が湧きます。

てめえ、うちの子の顔も名前も知らねえ癖に、何言ってやがるんだ。

何が「見えるのよ」だ。

 

Mixiで知ったAさんは、小学生の子供を水の事故で亡くしたそうですが、それを知ったある人に、

「子供が寒がっているから、何か温かいものをお供えして」

などと、ほざかれたそうです。

 

実は、その亡くなった子はアイスが大好きで、その当日もアイスをもっと食べたがったのを途中でやめさせたのが最後で、

「もっと食べさせてあげれば良かった」と悔やんで悔やんで悲しんでいるところへ、これですから。

 

Aさんは激怒していましたよ。

当然です。

 

こういうのは、「見える」などと虚言を吐いている本人は満足でしょうが、聞かされる周りは、非常に迷惑しています。

子供みたいに叱りとばす訳にもいきませんし。

ここまで来ちゃうと、死ぬまで直らないのでしょうか。

 

あと、美輪某って奴は、スマップの中居に「ピカソの生まれかわりだ」と言ったけど、ピカソが死んだのは中居の誕生後だし、江原某は、川崎カイヤの守護霊は父親と言って、「まだ生きている」とつっこまれているし、こいつらの生き方は、振り込め詐欺と同じ嘘まみれ人生です。

人間のクズですね。

 

ただし、「超科学」まで行くと、面白ネタとしては好きですよ。

ピラミッドの謎とか。

 

ちなみに、オカルト雑誌「ムー」の現編集長は、筑波大ワンゲルの2こ上の先輩です。

 

学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義

 

関連記事:

あすなろ186「霊が見えてしまったら」

あすなろ119 エアコン(過去記事)

あすなろ

 

 

 

2011.09号

 

7~8年前のこと、大学時代の同級生が、子供を連れて私の家に遊びに来ました。

 

確かあれは、夏の日のことでした。

我が家に入って最初に、友達の娘(5歳くらい)が

 

「えあこんをつけてください」

 

と言ったので、

 

「えあこんはありません。ごめんね」

 

と答えたところ、固まってしまいました。

 

あれは本当に、見事な「二の句が継げない」状態でした。

とても面白かったです。

 

そんなわけで、相変わらずエアコン無しの家に住んでいる朝倉ですが、塾ではガンガン使っています。

塾は自宅と違って「都会」ですので、窓を開けると排気ガスのにおいが入ってきますからね。

 

ウチと違って都会暮らしの皆様のことですから、今年の夏もエアコン様にお世話になったことでしょう。

 

エアコンは、中学社会の歴史では「3C」の1つ「クーラー」であると習うはずですが、クーラーとエアコンは、厳密にはちょっと違います。

冷房機能しかついていないのがクーラーで、冷暖房がついているのがエアコンです。

ただし、エアコンの暖房機能は、冷房機能を「逆」に使っているだけですので、根本的な理論は変わりません。

また、冷蔵庫も基本的な原理は同じです。

 

その理屈は、中学校の理科+αのレベルで理解できるものです。

そんな話をしましょう。

 

ただし、その原理を理解する為に、必要な知識がいくつかありますので、予習しておきましょう。

 


基礎知識その1。

 

ものの温度は、そのものが持つ熱の量で決まります。

熱をたくさん持っていると温度が上がり、熱の量が減ると温度が下がります。

……こう書くと当たり前のことのようですが、ポイントは、冷たいものにも熱は含まれているという点です。

冷たいものは、持っている熱が少ないだけで、熱がない、というわけではないのです。

 

基礎知識その2

 

気体を圧縮すると、温度が上がります。

逆に、気体を膨張させると、温度は下がります。

しかしそのとき、例えば1リットルの空気を圧縮して温度を上げても、それをまた元の1リットルの大きさに戻すと、理論上は元の温度に戻ります。

(エネルギー保存の法則です)

 

基礎知識その3

 

気体と液体では、同じ温度でも、持っている熱の量が全く違います。

気体の方が液体よりも多くの熱を持っていますので、液体を気体にする為には、多くの熱が必要となります。

逆に、気体を液体にすると、熱が余ります。

余った熱は、周りに放出されます。

 

基礎知識その4

 

気体を圧縮していくと、最後は液体になります。

逆に、液体を無理矢理膨張させると、気体になってしまいます。


 

以上4つの知識を得たところで、冷たくする理屈の説明を始めます。

 

まずここに、冷媒と呼ばれる気体があります。

これにぎゅうっと圧力をかけて、液体にしてみましょう。

すると、余った熱が出てきて、熱い液体が出来ます。

 

この熱い液体から圧力を抜いただけでは、また最初と同じ温度の気体になります。

持っている熱の量が、最初と同じだからです。

 

しかし、この熱い液体に外から風を当てて、冷ましてしまいます。

すると、持っていた熱が風に持って行かれて、熱の量が最初よりも少なくなってしまいます。

 

そうやって冷ました液体を、今度は無理矢理膨張させて、気体にします。

すると今度は、さっき熱を奪われた分だけ熱が足りなくなるので、最初に比べて熱の不足した状態になります。

つまり、温度の低い気体となります。

 

これに暖かい風を当てると、こんどは当たった風の熱が奪われて、風が冷たくなります。

もちろん、温度の下がった気体(冷媒)は、風から奪った熱で温度が上がります。

 

ここで、以上の流れを、冷媒の動きから、


1. 気体の冷媒に圧力をかけて液体にする

2. 熱くなった液体の冷媒に風を当てて熱を放出する(冷ます)

3. 液体の冷媒を膨張させて気体にする

4. 気体の冷媒に風を当てて熱を取り込み、温度を上げる(周りを冷やす)


 

と、4つの行程に分類しましょう。

 

エアコンの場合、1. の気体を圧縮する場所は、室外機の中にあります。

室外機というのはですね、エアコンが動くと、家の外でうおーんってプロペラが回っている所がありますよね。

それです。

それの中に、気体を圧縮するコンプレッサが入っていて、気体を液体に変えます。

 

そして、そのうおーんのプロペラで、2. の行程をします。

つまり外のプロペラは、圧縮して熱くなった液体を冷ましていたのです。

 

冷めた液体は、パイプを通って室内の送風機(エアコン本体)へと流れてきます。

そしてその本体の中で、3. の膨張を行います。

具体的には、その冷めた液体をブーっと吹き付けて、霧の状態にしながら広げるみたいですね。

もちろんこれは、機械の中での話です。

 

そうすると膨張させられた気体はすんごく冷えていますので、それに室内の風を当てると冷たい空気が出る、というわけです。

これが4. です。

 

このあと、気体となった冷媒は、パイプを通って室外機に行って、また圧縮されることになります。

 

ここで念のために書くと、室内外を移動しているのは液体や気体になった冷媒だけであって、空気は移動していません。

 

熱の移動という点から見ると、4. で室内の熱を取り込んだ冷媒は、室外機の2. で、外の空気に熱を奪われていきます。

つまり、室内の熱を屋外に運び出しているのが、冷房の仕組みなのです。

 

エアコンを暖房に切り替えた時には、これと逆の流れを作ります。

 

つまり、室外機のプロペラで4. をおこない、室内の本体の送風で2. をおこないます。

こうすることで今度は、屋外から集めた熱を、室内に取り込むことができます。

寒い冬の屋外から熱を集めるとは変な気がしますが、基礎知識その1、冷たいものにも熱は含まれています。

外は寒くても、熱が入っているのです。

 

エアコンの暖房は結局、熱を運搬しているだけですので、電力を直接熱に変えているわけではありません。

ですから、電気のファンヒーターよりも、電力効率は良くなります。

 

ところで先にも書きましたが、冷蔵庫も、エアコンと同じ仕組みで冷やしています。

ですから冷蔵庫を開けておいても、室内は全く涼しくなりません。

 

さて何故でしょう?

説明できますか?

 

学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義

あすなろ121 縄文文化と稲作伝来(過去記事)

あすなろ

 

 

 

2011.11号

 

ご飯が好きだ。

 

炊きたてなら、ご飯をおかずにご飯が食べられるくらい好きだ。

 

私は、世界で一番味にうるさい民族が日本人だと思っています。

そしてその味覚の元となっているのは、米食でしょう。

 

稲の原産は、中国大陸と言われています。

以前は、インドから長江上流域が原産だと言われていたのですが、最近は、長江中流から下流域が発祥の地とされているみたいです。

 

日本に最初に稲が伝わったのは、縄文時代の終わり頃です。

しかし、最初の頃に栽培していたのは、水田を使わないで畑に植える陸稲(りくとう)でした。

 

当時、すでに大陸では水田を使った稲の栽培が始まっていましたが、縄文人はこれをあえて選択しなかったようです。

 

水田による稲作は、田植えから水の管理までと、大変な手間がかかります。

しかしその当時、日本は温暖で豊かでした。

縄文人は、わざわざそんな手間暇をかけなくても、食料に困ってはいなかったのです。

ただ、陸稲は栽培が簡単だったので、一応植えてはいたようです。

 

ところで、縄文人という名称から、どんな人たちをイメージするでしょうか。

 

私の場合は少し前まで、ウホウホ言っている未開人というイメージでした。

歴史の教科書では、ネアンデルタール人とかなんとかの次に書かれてますから、しょうがないですよね。

しかし実際には、それなりに高度な文明を持っていたようです。

 

青森県に、三内丸山遺跡という、縄文時代の集落跡があります。

中学一年で習うと思いますが、教科書にはどのくらい詳しく載っているのでしょうか。

 

 

実はこれ、遺跡の存在自体は江戸時代から知られていたようですが、本格的な発掘は、1992年にようやく始まっています。

というわけで、私の時代には、この遺跡については習わなかったのです。

 

当時は遺跡といえば、弥生時代の登呂遺跡くらいしか載っていませんでした。

縄文時代のものといえば、せいぜい貝塚程度しか見つかっていなかったはずです。

ですから、最近この遺跡の詳細を知って、ちょっとびっくりしているところです。

 

縄文時代と一口に言ってしまっても、その期間は相当広いです。

数字で言うと、16500年前(紀元前145世紀)から3000年前(紀元前10世紀)となっていますので、えーと、1万3000年余りありますね。

その後の日本の歴史に比べて、すごくアバウトな分け方です。

 

縄文時代の前は旧石器時代で、縄文後は弥生時代です。

その境界となる目安は、土器と竪穴式住居が登場してから、水田における稲作が始まるまで、とされています。

 

そして先に挙げた三内丸山遺跡は、5500年前から4000年前となっています。

縄文時代の中では後半の方で、末期とまではいかないくらいの時代です。

 

縄文時代のことですから、麦や稲の栽培はもちろん始まっていません。

しかしこの遺跡の周辺では、どうやら栗の木が栽培されていたらしいのです。

さらに、マメ、ゴボウ、ヒョウタンなどの栽培植物が出土するところから、一年草も育てていた可能性もあるようです。

食用の一年草とはつまり、今でいうところの野菜ですね。

 

また、この「村」には、数百人が暮らしていたということになっています。

これ、田舎の子供会の区域よりも大規模ですね。

 

でもそれよりも凄いのは、測量技術です。

 

ここで見つかった「六本柱建物跡」は、六ヶ所の柱の穴の間隔が全て4.2メートル、幅と深さはは全て2メートルで統一されているそうです。

もちろん、穴は長方形に並んでいます。

つまり、長さを統一することに加えて、少なくとも直角を作る方法があったということになります。

 

 

直角を作る技術でよく出されるのが、エジプトのピラミッドです。

こちらは、3:4:5の直角三角形を作って直角を出した、とされています。

で、最初のピラミッドは紀元前27世紀とされていますので、単純計算で4700年前です。

ということは、この三内丸山遺跡と同時代になります。

となると、エジプトと同じような技術が日本にあっても、不思議は無いんですよね。

 

また、他の地域では、35センチという長さを基準にした遺跡があるということです。

で、先に挙げた4.2メートルという長さは、35センチのちょうど12倍です。

もしかしたら、この時代独自の統一基準でもあったのかもしれない、と言われています。

 

というわけで、日本にもそれなりに「古代文明」があった可能性が高いのです。

また、日本列島を通じて同じような土器や石器が発掘されていますので、南北の交流もそこそこあったようです。

 

そうやって繁栄した縄文文化も、ある時から終焉に向かいます。

それは、地球の寒冷化によるものです。

 

縄文時代の中期は、現在よりも温暖な時代でした。

しかし、約5000年前から徐々に下がってきた気温は、3000年前には東日本から栗の木を消し去り、漁業に壊滅的な打撃を与えるほどになります。

 

最盛期には全国で16万ほどもいた縄文人は、この寒冷化によって半分以下にまで減ってしまいます。

特に東日本では、人口減が大きかったようです。

 

一方、西日本では、寒冷化の影響をさほど受けませんでした。

しかしこのころ、西日本の人口は、急激に増加しています。

つまり、東日本の縄文人が、西日本に移動してきた、というわけです。

 

同じ頃、お隣の大陸でも北方の民族が南下してきて、南方の民族をおびやかし始めていました。

そして南の人たちの一部が、稲作の技術を持って日本に避難してきました。

大陸と日本では、以前から文化交流があったので、日本にたどり着いたのは偶然ではなく、はっきりと目指してきたことでしょう。

 

東からの人の流入で人口密度が高まって、食料増産が急務となった縄文人に、この水稲栽培の技術は渡りに船だったことでしょう。

こうして日本でも本格的な稲作が始まり、弥生時代へと入っていくことになります。

 

なお、大陸では「北方の民族が南下してきて南方の民族をおびやかし始めて」と書きましたが、日本ではこの時代の遺跡に、大規模な戦闘の跡が見つかりません。

世界史的には、食糧難による移民・流民関連では、食料を巡った殺し合いが起こるのが普通です。

しかし日本では起こらなかった……これって、「大災害の時にも列に並ぶ日本人」に通じるものがありませんか?

このころから、日本人はすでに「日本人」だったんだろうなあ、なんて思っています。

 

ところで一方で、

「西日本の人口急増の原因は、大陸人が大量に流入したせいではないか」

「稲作も、縄文人をよそに大陸人だけで作った集落で始められたのではないか」

という考えもあります。

しかし、水田跡から出土される道具類は、農耕機具は大陸式でも、生活用品は縄文式なのです。

そんなところから、

「大陸人も、集落を作れるほどの人数は流入していないだろう」

「水田を作ったのはやはり縄文人だろう」

と考えられているようです。

 

さらに、縄文人が大陸に「留学」して、技術を持ち帰ってきた、という説もあります。

これが本当ならすごいですね。

 

ところで、朝鮮半島最古の水田跡も、日本とちょうど同じ時代のものです。

この遺跡から出土した稲と、現存する稲の遺伝子の比較から、水田は縄文人が大陸から学んで、それを朝鮮半島に伝えた、という説まであります。

稲の遺伝子の種類が、朝鮮半島よりも日本の方が多様なのだそうです。

つまり、日本に伝わった稲の一部だけが朝鮮半島に伝わった、というわけです。

 

 

これが真実なら、それこそ歴史の教科書が変わります。

この説は、NHKでも紹介されて話題になりました。

 

ただ、この根拠となる稲の遺伝子情報は、私が見る限りでは調査が不完全だと思っていますので、今後の続報が待たれるところです。

 

学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義

あすなろ200 日本の歴史と天皇

あすなろ

 

 

 

2018.06号

 

「天皇制」という言葉があるようです。

用例は、「天皇制反対」「天皇制廃止」など。

ここからも分かるとおり、これは日本の天皇が気に入らない人達が使う用語です。

 

と書いてはみましたが、本当は、こういう言葉は日本に存在しません。

いや、存在しないって言われてもここにあるじゃん、と言われるかもしれませんが、でも、無いんです。

 

というのも、日本に天皇がいるのは、制度で定められたわけではないからです。

「天皇制」と言う以上は、きっと「国が定めた天皇という制度」と言いたいんだろうと思いますが、この考え方は根本的に間違っています。

 

国が決めたから天皇がいるのではありません。

日本国の法に従って天皇家があるわけではありません。

 

天皇があるから、日本があるのです。

 

仮に今、天皇が後継も含めて全ていなくなったら、日本国は日本国ではなくなります。

国の名前も、別のものになります。

例えば日本共和国とか。

その後は、現在の政府は一旦全て無くなって、全く新しい政府を建てて、憲法を一から作るところから始まることになるでしょう。

国旗も国歌も国鳥も国花も……全ての物を、一から作り直すことになります。

 

どうしてそんなことになってしまうのかというと、日本国の政治はあくまで、天皇に運営を委任されているものだから、なのです。

だから、依頼主の天皇がいなくなったら、今の政府は存在意義が無くなるのです。

要は、

「本当の政治の頂点は天皇だけど、実際の運営は君らに任せるわ」

というのが、日本の政治なのです。

 

実際に、新しい内閣総理大臣が決まったときには、必ず天皇に任命される「式」が執り行われます。

天皇が、「政治は君に任せた」と示す儀式です。

 

また、年の最初の国会では、天皇が国会議事堂に行って開会宣言をします。

天皇の開会宣言がないと、日本国の政治は始まりません。

国の運営権が天皇にあるからです。

 

すごい国でしょ。

 


こんな話は、これまで何回か授業で話したことがあるので、聞いたことがある生徒もいると思います。


 

さて、日本の歴史だけを見ているとあまり感じないかもしれませんが、国を統治する政府には、時に「正統性」を求められます。

 

例えば今、なんだか怪しい白人がやってきて、「今日からこの国は、ワターシタチが治めマース」とか言われても、「いやお前ら外人だろ」となりますよね。

または、突然首相が撃ち殺されて、撃ったやつが「ついに倒したぞー! 俺が首相だー!」とか叫んでも、普通は誰もそんな奴を首相とは認めませんよね。

なぜかというと、そんな奴らは正統な跡継ぎとして、国民に認められないからです。

 

しかし世界の歴史上では、これまでこんな話が、各地で実際に起こってきました。

 

そんな時の新しい統治者は、そこの国民に認められるように、とにかくがんばって我こそが正しい跡継ぎだという理屈をひねり出します。

これが「正統性」です。

例えばちゅうご……チャイナの歴史がいい例です。


中国地方と区別するには、こんな書き方しかないんですよ。

昔の「支那」という言葉を復活して欲しいです。


 

ご存じの通りチャイナは、王朝が興っては滅ぼされて、を繰り返してきた、「ルール無用」の殺し合いの歴史です。

 

日本も確かに、平安、鎌倉、室町などの転換点では殺し合いをしていますが、ルール無用というわけではありません。

根本的に違うのは、あくまで「天皇の臣下同士の争い」のレベルにとどまっていることです。

 

鎌倉幕府を立てた源頼朝は、「権力は(形の上では)朝廷だが、実務は幕府」という形式を作り上げました。

 

室町幕府を立てた足利尊氏は、時の後醍醐天皇を追放しましたが、殺しはしませんでした。

また、その後に光明天皇を立てて、征夷大将軍に任命してもらっています。

そもそも、征夷大将軍とは、朝廷が定めた役職の1つです。

あくまでも、天皇の臣下だったのです。

 

豊臣秀吉は、日本の歴史上で恐らく最大の財力と軍事力を持った人ですが、最終的に得た位は関白で、やはり天皇の臣下でした。

 

徳川家康はというと、朝廷の書物をひっくり返して、形骸化している「源氏頭」という位を探し出して、それを譲り受けることで秀吉の子よりも高位につくことができました。

やはり、現行ルールの中で、何とかしようとしたわけです。

 

しかし、チャイナの場合は違います。

今の政府がダメだ、となったら軍を編成して、その首都を攻略します。

統治者が逃げ出したら、追いかけて殺します。

我が国の足利尊氏は後醍醐天皇を追放しただけですが、チャイナでは殺します。

 

そしてその後は、全く新しい法律の、全く新しい国を建てるわけです。

それまでのルールは全てぶち壊しが前提ですので、「ルール無用」と呼んだわけです。

 

ともかく、そうやって国を建てるわけですから、国民にも「俺のやっていることは正しい」ということを認めさせる必要が出てきます。

そのために一番簡単なのは、「俺は天に認められて国を建てたのだ」説を作ることです。

そしてもう一つ必要なのが、「これまでの国の正統な後継者である」という理屈です。

これが正統性です。

 

チャイナでは、新しい王朝が建つ度に、直前の王朝の歴史を編纂しています。

前王朝の跡継ぎを自称する以上は、「先代」がどうやって興って、どう栄えて、しかしどこから間違えて滅んだのか、誰もが確認できるように作り上げる必要があるのです。

 

そして、その書物こそが、その王朝の基本資料となります。

聖典と言ってしまってもいいかもしれません。

「この通りわが王朝はここに正しく存在するのだ」と、国民に認めさせるのです。

 

日本に話を戻します。

 

日本でも、古墳時代まで遡れば、各地の豪族がそれぞれ「王国」を作っていました。

これを武力もしくは話し合いで各地を制覇していったのが、今で言うところの天皇家率いる大和朝廷でした。

 

大和朝廷も、自らの系譜を度々まとめていたようです。

620年、聖徳太子と蘇我馬子の指示で「天皇記」と「国記」が編纂されました。

681年にも「帝紀」と「旧辞」が編纂されています。

(※ 以上の書物は現存していません)

 

そして、この4つの書物を基にして、天皇家の正統性を確認するためにまとめられた書物が、720年に作成された日本書紀です。

 

何に対して正統性を主張するかと言えば、神です。

先に書いた、「天に認められて国を建てた」説ですね。

 

日本書紀とほぼ同時に編纂された、古事記という書物もありますが、あちらの目的はどちらかというと、これまで伝わってきた歴史の一本化です。

登場する神の名前の書き方からして、個人的には日本各地の神を一本化したかったのではないかと思っています。

 

日本書紀も古事記とほぼ同じストーリーなのですが、日本書紀の方は、初代以降の天皇の話がもう少し詳しくなって、各氏族の話にまで言及されています。

これによって、氏族と天皇の、歴史上の関係を示したかったようです。

 

そしてその日本書紀の記述に従って、天皇と貴族の位が決まり、そのルールのまま、日本の歴史はずっと続いてきています。

基本はずっとそのままです。

 

それから1300年以上経った現在、日本国の政治形態は、やはり日本書紀を基本としています。

 

学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義

 

 

あすなろ115 原子力(過去記事)

あすなろ

 

 

 

2011.05号

 

今、福島は世界の「Fukushima」へ。

 

……なんて冗談言っている場合じゃないのですが、世界的には実際に、超有名な地名になってしまいましたね。

どちらかといえば、むしろ

って感じでしょうが。

 

原子力発電所の仕組みは、原子力によって湯を沸かして、その蒸気でタービンを回して、……というあたりまでは知っていたのですが、私もその仕組みを完全には理解していませんでした。

この機会に調べてみましたので、わかったことをここに書き上げてみようと思います。

 

まず、電気を起こす方法から。

 

中二で習いますが、モーターを回すと電気が起きます。

電磁誘導というやつですね。

これが発電機の原理です。

つまり、何らかの方法で発電機を回すことができれば、電気が作れるということです。

 

これを風車で回しているのが風力発電です。

水車で回せば水力発電となります。

火力発電と原子力発電は、熱で湯を沸かして、その蒸気の力でタービンと呼ばれる羽を回しています。

太陽光発電に限ってはは少し違うのですが、それ以外は、基本はだいたい同じ仕組みで発電されています。

 

それでは、原子力はどういう原理で熱を出すのか。

少々細かい話になります。

 

全ての物質は、原子が集まってできています。

その原子にはいろいろな種類があって、水素とか酸素とか鉄とかあるわけですね。

 

原子には、中心に原子核というものがあります。

そしてこの中には、一定の重さの、2種類の粒が何個かずつ入っています。

片方は、陽子(ようし)という名前で、プラスの電気を帯びています。

もう一方は中性子(ちゅうせいし)と言って、電気は帯びていない単なる粒です。

そして、このうち陽子が入っている数によって、原子の種類がきまります。

また、陽子と中性子は、ほぼ同じ重さです。

 

例えば酸素は、陽子と中性子がそれぞれ8個ずつ入っていますので、合わせて16個分の重さがあります。

これが鉄になると、それぞれ26個と30個入っていますので、合わせて56の重さになります。

 

ウランという金属があります。

自然界にある中で、大きさあたりの重さが一番大きい物質です。

ウランの原子核には、陽子が92個、中性子が146個も入っていて、合わせて238個もの粒が入っています。

そして、ここまでのものになってくると、時々原子核が壊れます。

するとその時に、エネルギーを出すことがあります。

そういった壊れ方・エネルギーの放出具合をうまく制御して、一定の熱を発生させるのが、原子力という仕組みです。

 

ウランの原子核は、ほおって置いても勝手に壊れるのですが、それだけでは湯を沸かすようなエネルギーになってくれません。

そこで、ウランの中でも、壊れやすい状態のものを、沢山集めることから始めます。

 

実は、同じウランでも、たまーに中性子が143個のもの(ウラン235)があります。

そしてこちらは、146個のもの(ウラン238)よりも不安定で、壊れやすい――つまり、エネルギーを取り出しやすい状態になっています。

そこで、この割合を増やしたものを作ります。

これが核燃料と呼ばれるものです。

具体的には、天然の0.72%の状態から、3~5%程度まで濃縮された物が使われます。

一方、これが核兵器になると、90%以上まで濃縮されたものが使われます。

 

そして、集めたウラン235に、ある一定速度で中性子をぶつけます。

すると中性子を取り込んでさらに不安定になったウラン236の原子核は、壊れて二つに分裂してしまいます。

この時、ただ分裂するだけではなくて、2~3個の中性子を放出します。

放出された中性子は、また別のウランを分裂させて……といった反応が、次々と起こります。


ウランに中性子がぶつかると、別の物質へと分裂しながらまた中性子を放出する


原子核は、壊れるたびに大量のエネルギーを放出します。

従って、この反応が連鎖的に次々と起こっていくと、ものすごい熱を出し続けることになります。

この連鎖反応が、上手くつながった状態が「臨界(りんかい)」と呼ばれるものです。

 

こういった核分裂反応は、勝手に反応が続いていってしまうので、放置するととんでもない熱量を発生してしまいます。

そこで、これを一定の状態に保つように調整する必要があります。

その手段が、吸収と冷却です。

 

冷却は、文字通り冷やすことです。

熱を持ちすぎると、固体の核燃料が溶け出してしまって、周囲の炉を侵します。

そうすると、中身が漏れ出てしまうことになりますので、それを防ぐために、日本の原子炉では主に水で冷やします。

こういう方式の原子炉を軽水炉と呼びます。

 

また、飛び散る中性子を吸収すれば、それ以上の連鎖反応は起こりません。

そこで、核燃料は、普段は中性子を吸収する物質で包まれています。

原子炉の中で反応を進めるときには、この制御物質(制御棒)を少しずつ抜いて、出力を調整します。

 

ところで、分裂で飛び散る中性子は、かなりの速度が出ています。

しかしその速度では、核分裂の効率があまりよくありません。

そこで、中性子の速度を下げるための減速材として、日本の原発では水が使われています。

もちろん、中性子が外に逃げていってもまた効率が下がりますので、原子炉の内壁は、中性子を反射するもので覆われています。

 

それでも、実際に発生する温度は2000度前後まで達し、そのままでは扱い切れません。

そこで、大量の水を循環させることで、現実的な数百度にまで下げて使っています。

ですから、実はかなりのエネルギーが、まだ有効利用できていません。

今後の課題でしょう。

 

原子力機関はこれだけのパワーを持っているので、石油内燃機関に比べると、非常に小さい燃料で、大きな力を出せます。

しかも、一度燃料を装填すると、数ヶ月単位で、燃料の補充が必要ありません。

 

そういった利点から、小型の原子力機関が航空母艦(空母)にも使われています。

空母は、大きい物だと5000人の乗員と100機弱の戦闘機を積んで、何ヶ月も寄港せずに行動するため、燃料が少なくて済むというのは、かなりのメリットとなります。

また、エンジンとして動かすときに空気(酸素)が不要であるという点から、一部の潜水艦にも原子力エンジンが使われています。

同じ理由で、宇宙空間でも使われることがあります。

 

原子力は、まだ多くの可能性があるシステムであることを、一応述べておきます。

 

学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義

あすなろ32 ハチ擁護(過去記事)

あすなろ

 

 

 

2004.06号

 

岩井(現:茨城県坂東市)に、県立の博物館がありますよね。

なかなかいいところなんですけど、行ったことありますか?

 

先日、久しぶりに行ってみました。

行ったのはこれで3回目、7~8年ぶりくらいです。

行った理由は、「ハチ」特集をやっているからです。

知ったのはたまたまですが、昆虫のことをやっていると知った以上は行かざるを得ません。

弁当作って、親子で行きました。

すると、子供がすっかりはしゃいじゃって、自分のペースで見られなかったのが少々残念。

 

それはともかく、ハチです。

 

ハチっていうと、世間的には「危険動物」の代表格らしいです。

ウチにある「危険動物図鑑」では、表紙に一番でっかく載っているのがスズメバチです。

「ハチが飛んできた」というと、大抵の人が首をすくめながら、斜め上を見回します。

部屋に入ってきようものなら、一時パニックです。

 

そんなに怖いですかねえ?

 

基本的にハチは、自分の命を守る時と、自分たちの巣を守るとき以外には、刺すことはありません。

ので、部屋の中に迷い込んできたハチが、いきなり人間を刺すことはありません。

自分が「殺される」と感じたときにのみ、攻撃に移ります。

 

具体的には、自分の動きを押さえられたときです。

つまり、二本の指でつまんだり、壁に押しつけたりすると刺そうとします。

しかし、軽くつついたり、優しく払ったりしただけでは刺しません。

また、飛びながら刺すことはありません。

従って、飛んでいるところを手ではたいても、刺されることはないと考えていいでしょう。

実際、刺されたことがないですし。

 

巣を守るときは、少々別です。

確かに普段よりも攻撃的になります。

オオスズメバチは特に危険です。

が、それ以外のハチの場合、巣から1mくらいまでなら平気です。

巣から離れて攻撃することはありません。

 

要はあれですよ、熊。

熊も基本的には人間が怖いので、向こうから人間をめがけて襲ってくることはありません。

出会ってしまったら、身の危険を感じて攻撃態勢に入るだけです。

また、子連れは凶暴になるところも、巣を守るハチと同じです。

まあ、要はそれだけのことです。

 

それともう一つ、ハチ以外の昆虫をハチと間違えている人もよく見かけます。

 

「擬態」ってご存じですか。

主に、無害の動植物が、危険とされる動植物そっくりになることにより、敵から逃れようとすることをいいます。

(ベーツ型擬態の場合)

 

ハチに擬態している昆虫は数多くいます。

例えば、ハエの仲間であるハナアブなら、ハチよりも多く見かけます。

色彩はハチに似ていますが、頭はハエですので、慣れればすぐに見分けられます。

 


こっちがハナアブ。

ハエと同じ顔していますよね。


こっちがミツバチ


 

比べてよく見るとわかるのですが、頭に対する眼の大きさが、かなり違います。

無駄なエネルギーを使わないためにも、覚えておいて損はないと思います。

他にも、カミキリやガの仲間に、ハチによく似た種類がいます。

 

さらに目が慣れると、オスバチも区別できます。

顔や色合いなどがちょっと違うのですが……まあこちらはここでは違いを上げないことにします。

もともと、ハチの針は産卵管に由来しているので、オスには最初から針がありません。

それでも、オスを捕まえると、いかにも針があるように、刺す真似をします。

これも擬態行動の一種といえるでしょう。

 

関係ないですけど、擬態は英語でmimicryと云います。

実は、ドラクエに登場するモンスター「ミミック」の名は、これに由来しています。

(「ミミック」の場合は、獲物を捕るために周囲に紛れる、ベッカム型擬態でしょう)

 

ともかく、そういうわけなので、ハチに敏感になりすぎる必要はありません。

ハチの存在を、もうちょっと認めてあげてください。

 

また、黄色と黒の警戒色を持つ、いわゆるハナバチ以外でも、よく観察すると随分おもしろいハチもたくさんいます。

 

例えば狩人バチ(狩りバチ)というグループは、自分よりも大きいイモムシ・クモなどを狩って、地面に掘った巣穴や、土をこねて作った巣に運んでいきます。

また、この手のハチは、獲物を狩る時に殺さずに麻酔するという技を持っています。

(その話は、ファーブル昆虫記にも取り上げられています)

 

また、ウマノオバチは、産卵管が10cm以上もあります。

木の幹の中にいる、カミキリムシの幼虫を探し出して産卵します。

 

寄生バチの中には、体長0.18mm (180μ)以下のものがありますが、ちゃんと雌雄があり、飛翔します。

世界最小の昆虫です。

 

アリもハチの仲間です。

針はないですが、攻撃用に蟻酸という「毒」を出せます。

 

全く針がなく、幼虫は木の葉を食べているハバチという仲間もいます。

青蜂(セイボウ)と云う、玉虫に匹敵するくらい綺麗なハチもいます。

 

日本原産のミツバチは、スズメバチに巣を襲われたとき、敵に集団で取り付いて、体温を上げて熱死させます。

 

いかがでしょうか。

よろしければ、興味を持ってやってくださいませ。

 

学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義

あすなろ162 西之島(過去記事)

あすなろ

 

 

 

2015.04号

 

小笠原諸島の西之島はご存じでしょうか。

こうしている今も、溶岩を流し続けて領土拡張している真っ最中の島です。

 

最初は、西之島のすぐ南の海上(島から500メートルくらい)で噴火が始まって、新しい島が出現しました。

これが2013年の11月のことです。

 

その後、噴火が続くにつれて溶岩は広がり、西之島本体と一つになります。

その後もさらに噴火は続き、今では元の島を覆い尽くしています。

 

次の図は、成長していく西之島の様子です。

左から順に、2013年12月、2014年3月、2015年3月です。

 

 

左上の本島に対して、右下の新島が徐々に大きくなって、本島を飲み込んでいく様子がわかると思います。

 

そして2005年3月の調査では、今回の噴火活動では初めて、拡大が停止したという発表がありました。

しかし、溶岩の噴出が止まったわけではありませんので、まだ面積は広がっていく可能性もあります。

 

実はこの島は、1970年代から、島の面積を増減させてきました。

 

1970年代までの西之島は、南北に細長い島(次図左上)でした。

しかし1973年、その南方海上に火山が出現して、広がった溶岩はもとの島とつながります。

今回の噴火と同じような流れですね。

 

このときの噴火は、およそ1年くらいで収束しました。

噴火終了直後が、次図の右下です。

最終的には、こんなU字型の島となりました。

 


西之島の成長

左上から下へ順に右下まで


 

ところが、これ以降は波による激しい浸食を受けて、島はどんどん削られていきます。

その一方で、U字型の「湾」には土砂が打ち寄せられて、徐々に陸地化していきます。

そうやって堆積と浸食を続けた結果、1990年頃には、ほぼ四角い形状の島へと変わっていました。

湾の最深部は、もはや池です。

 


島の最南端は浸食されながら、湾が堆積で埋まり始める


湾は完全に埋まって池となる
この後さらに、最北端は丸く削られる


 

その後も浸食を受けて年々減少中のところへ、今回の噴火です。

1年余りの噴火の結果、島の面積は一気に10倍にまで広がりました。

今後も面積は増加を続けるのか、それともまた以前のように減少に転ずるのか、まだまだわかりません。

 

現在、普通に存在している島々も、最初はこうやって広がったり削られたりしながら現在の形になっていったと思うと、なかなか感慨深いものがあります。

 

とはいえ、この島がそのまま拡大を続けて四国のようになるかといえば、そう簡単にはいかないでしょう。

 

今回の噴火で急激に島が拡大できたのは、島の周辺が最初から浅瀬だったからです。

海底地形図を見ればわかりますが、島が元の10倍になったなった、なんて言っても、それは所詮、海底火山体の山頂に収まっているレベルなのです。

 


西之島周辺海底の立体図
右上拡大図の濃い部分が今回の新島
北側にはまだ広がる余地があるが、南方向はすでに限界であることがわかる


 

もちろん、この海底火山を覆うような大規模噴火が起これば、巨大な島に成長することは可能です。

しかしそうなると、今度は西之島の東にある父島で、噴煙などによる大規模災害が起こる可能性もあります。

 

そうでなくても、現時点ですでに溶岩が津波を起こす可能性まで出てきました。

 

右図の通り、南側は海底火山体の山頂火口縁まで迫っています。

このまま上に溶岩が積み重なると、ある時島の一部が崩壊して、海底の斜面を駆け下りることがあります。

これは、陸上で言うところの火砕流に相当するのですが、その規模次第では重力波が発生して、津波が発生することもあるのです。

 

西之島の場合、父島に達する津波は1メートル程度と計算されています。

と書くと小規模なのですが、巨大な島を願うなら、それに応じたリスクは高まる、ということですね。

 

ともあれ、ハワイのキラウエア火山のように、少しずつでもずっと溶岩を出し続けていけば、徐々に大きい島に成長することでしょう。

もしかしたら、四国レベルにまで大きくなるかもしれませんね。

夢は広がります。

 

ま、とりあえず、あと1万年くらい待ちましょうよ。

うわー楽しみですねー。

 

学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義

あすなろ199 かけられる数×かける数

あすなろ

 

 

 

2018.05号

 

 

ニセ科学という言葉があります。

 
 
 

私もこれまで時折、この手のものを俎上に上げて叩いてきたのですが、
そう思って自分の文章を読み返してみると、
10年ほど前は「エセ科学」と書いていました。
 

その頃はまだ、今のような定型句が無かったということなのだろうと思います。
 
 
 
さて、個人的に最近注目の科学雑誌……というか、理科雑誌があるのですが、
その4月号の特集が、
「ニセ科学を斬る! 2018」
というものでしたので、試しに買ってみました。
 
 
 

そうしたらですね、その一本目がコレ。
 
 
 
「『かけ算には順序がある』と教える教師たち ~正解が×にされる不条理」
 
 
 
名前をさらしますと、投稿者は山本弘氏。
 
 
 
山本氏の名前は、二十年以上前から知っております。
 
「と学会」という集まりを立ち上げて、
「トンデモ科学」を見つけてきては世に晒すということをしていて、
中々面白くて好きだったのですが、今回の山本氏には心底ガッカリですわホント。
 
この雑誌も、他の記事やバックナンバーは面白かったのになあ……。
 
 
 
ネットで調べてみると、この問題は結構前からずっと論争になっていたようです。
 
私も以前、チラリとこの手の話を聞いたことがあったのですが、
ウィキペディアで「かけ算の順序問題」なんて項目ができるほどの
ガチ論争になっているとは思ってもいませんでした。
 
 
 
まずは、これがどういう問題なのかをご紹介します。
 


 
問題「5円玉が3枚でいくらか」
 
 
 
・「5×3=15」→正解
 
 
 
・「3×5=15」→不正解
 
 
 
→3×5がバツなのは納得いかない!
 


 
で、問題を論じているサイトに行くと、皆様賢い方ばかりなのか、
無駄に難しい言葉で長々と難しく論じる人の多いこと多いこと。
 
もっと普通に書けばいいのに。
 
 
 
こういうレッテル貼りはあまり好きでは無いのですが、
この納得いかない派の人たちの理屈を読む限り、
あまり数学が好きではなかった方が多いようです。
 
また、「ナンセンス」などという、
もう50年前に流行した死語も頻繁に登場しますので、
反体制がカッコイイという時代に育ったご老人が多いのでしょうか。
 
 
 
ただ、逆に「順序が大切派」の理屈も、どうもフニャフニャしているんでよね。
 
 
 
簡単にまとめると、納得いかない派は、
 
「数学的では無い」
 
「社会では役に立たない」
 
という論調に対して、順序守る派は
 
「教育上」
 
「約束になっている」
 
「合理的である」
 
という主張なので、全くかみ合ってないのです。
 
 
 
さて、納得行かない派の中で、最も多く登場する用語が「交換法則」、
つまりかけ算は、順を入れかえても同じというアレです。
 
交換法則により順序は決まってないはずだ、
交換法則を習うときに混乱する、
数学的ではないからおかしい、
 
などなど。
 
 
 
ああそうですかー。
 
そんなにおっしゃるならば、納得いかない派の大好きな、
「数学的」という方面からお話してみましょうか。
 
 
 
数学というものは、全ての学問の中で、最も理屈に厳しい学問です。
 
 
 
他の科学では、事実を基にして仮設を立てたあとは、
それが一般的に正しいかは実験によって確認され、
反例が出ないときは正しいとされます。
 
 
 
しかし数学の場合。
 
例えば円周率は循環しない数ですが、他の科学のように
 
「誰が実験(計算)しても循環しなかったので、循環しないといえる」
 
などという曖昧な決め方は認められません。
 
例えば1兆桁まで計算して見つからなくても、
次の桁で見つかる可能性がゼロでない以上は、絶対にダメなのです。
 
 
 
今回のかけ算問題は、そういった数学の
 
「細かさ」
「うるささ」
 
に触れる第一歩である、と言えます。
 
 
 
「aがn個あるとき、a×nと定義する」
 
 
 
これが、日本の教育におけるかけ算の定義です。
 
定義なのです。
 
ここから外れることは許されません。
 
 
 
しかし後に、順序は指摘されなくなります。
 
定義を十分に理解した後は、
新たな公式を活用することで、
解答する速度を優先させるようになるからです。
 
今回の話でいうと、
その公式にあたるのが交換法則ですね。
 
 
 
逆に、
次の段階に進むまでは、
定義に従わなければいけないのです。
 
算数・数学とは、ある意味そういう訓練なのですから。
 
 
 
小学校のかけ算に限りません。
 
まだたくさん例はあります。
 
皆さん忘れているだけです。
 
 
 
例えば、中学一年で習う、一次方程式です。
 
 
 
方程式を解く際に、移項をしますよね。
 

 

しかしこれは、定義に従った計算法ではありません。
 
定義に従った計算法は、
「両辺に同じ数を加える」などの
「等式の性質」を利用したものとなります。

 

 

移項を習う前のこの時点で、
移項を使って解いたら当然バツです。
 
定義に従っていないからです。
 
これは、
かけ算の順序を守らないとバツなのと、
同じことなのです。
 
移項を習ったあとは、移項でかまいません。
 
公式を使って、計算速度を優先させるからです。
 
 
 
他にもあります。
 
 
 
高校二年で微分を習うとき、最初に登場するのは極限値を使った導関数の計算です。
 
これが定義に従った微分法です。

 

 

微分の公式
「xのn乗の微分=nxのn-1乗」
を知っていても、ここで使ってはいけません。
 

 

それは計算上の公式であって、
定義に従っていないからです。
 
 
 
さらに、web上の意見では、
 
「大学生がマルで小学生がバツなんてものはあってはいけない」
 
なんてものもありましたが、では図形の証明はどうでしょうか。
 

高校入試の数学の問題では、
三角形の合同証明には
合同条件をきっちり書かないと減点です。

 

 

しかし、大学レベルになると、
三角形の合同条件なんていちいち書きません。
 
書いたとしても、「①②③から合同である」程度です。
 
というわけで、
大学生がマルで中学生がバツの例、ありますね。
 
 
 
そうそう。
 
一番笑ったのが、
「一律に×にしてしまうと、自由な発想がはぐくまれない」
などという反対論。
 
 
 
数学では、
ルールから外れた自由な発想などというものは
求められていません。
 
数学とは、たった一つの正解を求める学問なのです。
 
 
 
よく、
「国語では正解は一つでは無い」
とか言っちゃったりして、
「社会に出れば正解の無い問題はいっぱいある云々」
というお説教を始めちゃう人がいますが、
 
 
 
それは違います。
 
 
 
社会に出たからこそ、正解と不正解は、厳密に区別しなければいけません。
 
 
 
仮にどんな理不尽なルールであろうとも、
そこから外れた行動は、
そのルールがある以上は不正解なのです。
 
そのルールの範囲内で行動するのが、オトナというものなのです。
 
こんなものは、
制限速度や一時停止などの交通法規を出すまでもないですよね。
 
 
 
算数や数学によって、
「決まりに従うこと」と、
「間違いを間違いと認めること」を
学んでいただきたいと思います。
 
反対派の言い訳は、読んでいて見苦しいです。
 
 
 
学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義
 
 
 


 
追記
 
ちょっと考え方を変えるとわかるのですが、
 
「用意するもの・・・3×鉛筆」
 
と、
 
「用意するもの・・・鉛筆×3」
 
では、
別にどっちでも同じと思いますか?
 
普通は、
上の書き方に違和感を感じると思うのですが。
 
ですからやはり、
日本においては、かける数が後なのです。
 
 
 
ところで、西洋諸国では、
かける数とかけられず数の順序を、
日本とは逆に教えているそうです。
 
しかしこれは、言語の構成上の問題だと思います。
 
 
 
例えば日本では、
 
「鉛筆3本」
 
と表記しますが、英語圏では
 
「3 鉛筆」(three pencils)
 
と表現するからです。
 
確かに日本語でも「3本の鉛筆」という言い方はありますが、
その場合は助詞「の」を伴う必要があります。
 
 
 
これに関連するお話は、
以前にも、さらにもっと以前にも
書いたことがあります。

あすなろ172 桜田門外の変(過去記事)

あすなろ

 

 

 

2016.02号

 

前回の忠臣蔵に引き続き、今回は桜田門外の変です。

言い訳第二号です。

 

もう一つの雪の朝の事件、桜田門外の変は、幕末の頃に起こった事件でした。

 

忠臣蔵で殺された吉良が旗本だったのに対して、桜田門外で殺害された井伊直弼は、江戸幕府の大老でした。

大老とは、時の幕府の最高権力者で、言ってみれば首相のようなものですので、首相暗殺レベルの事件です。

 

この事件は、歴史の教科書的には、

「井伊直弼はアメリカとの日米修好通商条約を独断で結んで、それに反対する吉田松陰らを安政の大獄で処罰した。そこで反感を買って殺された」

というようなことになっています。

 

でも、もう少し詳しく見ていきます。

本当は、もっと複雑で根が深い話です。

 

最初のきっかけは、ペリーの一回目の来航でした。

この時の将軍は第十二代家慶(いえのぶ)だったのですが、ペリー来航時には、もうさっさと跡継ぎを決めないとやばい状態だったのです。

しかし、問題がありました。

 

次期将軍候補である家定(いえさだ)は、よく言えば病弱、悪く言えば役に立つ見込みがない人物だったのです。

脳性麻痺だったとも言われていまして、会話はできたようですが、後には廃人同様だったこともあったようですから、確かに将軍が務まるような人物ではなかったようです。

 

ともかく、来年にはペリーに何らかの返事をしなければいけないという局面で、家定に任せるわけにはいかないと主張する人物が現れました。

水戸藩の徳川斉昭(なりあき)です。

 

彼の一推しは、一橋家に養子に出した慶喜(よしのぶ)です。

後の十五代将軍ですね。

 

確かに慶喜は、優秀なことで有名だったようです。

しかし斉昭は、老中の阿部正弘に「次には慶喜にするから」と説得されて、引き下がります。

そして、家定が第十三代将軍に就くこととなりました。

 

家定は先述の通りの人物でしたので、跡継ぎの男子を儲けることは無理だということが明らかでした。

そこで、徳川斉昭を中心に、今度こそ慶喜にしなければという運動がおこります。

今回は、先述の老中阿部正弘も賛同しています。

しかし、本来の後継者順では、次は家茂(いえもち)のはずでした。

 

跡継ぎ争いによる騒乱は、日本史上で何度も起こっています。

古くは飛鳥時代の壬申の乱が、その後も平安時代の保元の乱、室町時代の応仁の乱と、その度に内戦が起こり、政治が大混乱を来(きた)しています。

 

しかし徳川家康が、ここで一つの規則を定めます。

それが、長子相続というものです。

現在の天皇家の即位順と同じものですので、今からすれば至極当たり前のようですが、戦国時代までは、家督を継ぐのは長子とは限りませんでした。

戦国武将を調べるとわかります。

 

家康は三代将軍を定める際に、もっと優秀とされていた人物を差し置いて、家光を指名します。

この前例があったからこそ、その後何百年も、江戸では後継者争いが起こらなかったのです。

しかし今回の徳川斉昭による慶喜推しは、これに反するものでした。

 

しかしここで、この派閥を支えていた老中阿部正弘が急死します。

すると、反斉昭派が巻き返しを図ります。

さらにこのころ、ハリスが日米修好通商条約の締結を迫っていて、将軍家定の病状はいよいよ重体となるし、開国か攘夷か、跡継ぎは誰がいいのか、大奥まで巻き込んで、城内は大混乱となります。

 

そんな時、それをまとめる大老として指名されたのが、井伊直弼でした。

彼は、就任二ヶ月後には後継を家茂と定めます。

 

実を言うと、直弼自身は井伊家の十四男で、父親が亡くなってから自分に家督が回ってくるまで、十五年間を自宅の離れで耐えています。

そんな直弼ですから、後継の順序に厳しいのは、ある意味当然だったともいえます。

 

また、現将軍の家定自身も、どうも慶喜には将軍を譲りたくなかったようです。

イケメンでモテモテなのが気にくわないとか。

いやこれマジで。

 

ともかく、残るはアメリカとの条約です。

 

直弼は、各大名に意見を聞いて回った結果、開国することはやむを得ないが、天皇の勅許(ちょっきょ)を取る必要がある、という結論に達しました。

天皇云々は、反対派を納得させるためのものでしょうね。

だって別に、鎖国の時は天皇の許可なんて取ってないし、幕府は朝廷を実効支配していて、朝廷は幕府に逆らえない状態だったわけですから。

 

それでも一応は筋を通すために朝廷に行くのですが、天皇は勅許を出さずに

「衆議を尽くした上で再度奏聞(そうもん)せよ」

なんて言います。

要は、もっと話し合ってからもう一回来いというわけです。

 

ところが、条約交渉の担当者は直弼に、

「どうしてもの時は、結んじゃってもいいよねいいよね」

と言ってきます。

それに対して直弼が

「その時は仕方ないけど、でもできる限り粘れよ」

と答えると、担当者はその日のうちにさっさと条約に調印してしまいます。

ひどいお役所仕事です。

 

直弼からしてみれば望まぬ結果となってしまったのですが、それでも上司の責任です。

ちなみに、現在の歴史の教科書では、直弼が反対派を無視して条約を結んだことになっています。

 

さて、反対派の斉昭はといえば、跡継ぎ問題で二連敗したあと、条約問題でも言い分は通らず、しかも直弼の奴は天皇の勅許ナシでやりやがったときて、もう怒り心頭で江戸城に怒鳴り込みに行きます。

しかし、定められた登城日ではなかったのに勝手に来たということで、逆に謹慎を食らってしまいます。

 

すると今度は、それに抗議する島津藩は兵を引き連れて江戸に向かおうとします。

これは藩主が急死したので中止されましたが、水戸藩は水戸藩で、幕府を通さずに裏ルートで朝廷にチクりに行きます。

 

以上の行為は、幕府に対する裏切り行為で、反乱の一歩手前です。

というか、ほぼ反乱ですね。

そこで幕府は、そういう勢力を次々と捕らえて、死罪、強制隠居、謹慎などの処分を与えていきました。

 

これが安政の大獄です。

 

安政の大獄といえば、教科書的には「吉田松陰が処刑された」ですが、ここにも誤解があります。

 

鎖国のルールとして、日本人の海外渡航禁止があります。

しかし松陰はこれを破って、ペリーの船でアメリカに行こうとしました。

そしてその件で捕らえられると、今度は老中暗殺計画なんてのをベラベラとしゃべり始めました。

だから死刑になったのです。

直弼とかそんなのは関係なく、そりゃ死刑でしょ普通。

 

ともかく、このように直弼によってギッチギチに追い詰められた水戸藩は、ついに逆ギレをおこします。

雪の早朝、江戸城の桜田門の前で、登城中の井伊直弼は水戸藩士に襲われて殺害されました。

桜田門外の変です。

 

結局、悪いのは誰だったのでしょうか。

 

学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義

あすなろ171 忠臣蔵(過去記事)

あすなろ

 

 

 

2016.01号

 

こんにちは。

久々にウソを教えてしまいましたので弁解でございます。

 

先日、5年生に幕末のあたりを教えていたときのことです。

(四谷大塚のカリキュラムでは、5年生の後半で歴史を学びます)

 

桜田門外の変が登場したとき、

「これは年末によくやっている忠臣蔵なんだけど、忠臣蔵知ってる?」

と聞いてみても反応が薄いので、まあここに書いてみようかなんて調べ始めたわけですよ。

でもアレ?

ナンカチガウ。

 

なんと、「桜田門外の変」と「忠臣蔵」は、全く別のお話でした。

 

「なんと」じゃねえだろそりゃそうだろと思うかもしれません。

ですよねー。

でもなんだか、私の中では見事に混ざっておりました。

 

いや、両方ともちゃんと知っていたんですよ。

浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)も吉良上野介(きらこうずけのすけ)も大石内蔵助(おおいしくらのすけ)も松の廊下も赤穂浪士(あこうろうし)も、また、井伊直弼(いいなおすけ)も徳川斉昭(とくがわなりあき)も彦根城も安政の大獄も水戸藩士も、全部スラスラ出てくるのに混ざっていたのですからもうダメかもしらんな俺。

 

ただ二つとも、

「雪の降る早朝、江戸の武家屋敷町で逆ギレ浪人集団が起こした暗殺事件」

という共通のクライマックスを持っているので、すっかり混ざってしまったわけです。

どうもすみません。

 

もう少し言い訳をさせていただけるのなら、共に

「殺されたのは幕府の上役で、殺したのはその人と対立した殿様の元部下」

「殺された方は悪者扱いされていたが本当は悪者じゃなかった説を多く見かける」

という点でも似ています。

似てるでしょ?

でしょ?

 

それぞれ、ちゃんとご説明いたします。

まずは、忠臣蔵の方です。

 

こちらは、おおざっぱには

 

1.江戸城にて、赤穂城主の浅野内匠頭長矩(ながのり)が、江戸城内の松の廊下にて、吉良上野介義央(よしなか)に突然斬りかかる。

 

2.その罰として、浅野長矩は即日切腹。浅野家はお家取り潰し(=大名として終了・城は別の大名家に明け渡し)。吉良はお咎(とが)めなし。

 

3.一年九ヶ月後の十二月十四日未明、浅野家の元部下である大石内蔵助を筆頭とした赤穂四十七士が、吉良の屋敷を襲撃して吉良義央を殺害。

 

といった流れのお話です。

 

時は元禄、五代目将軍徳川綱吉の頃の話です。

習った人は知っていると思いますが、元禄文化の元禄です。

江戸時代の前半頃ですね。

 

先に挙げたあらすじは、一応、確かな事実だけを並べたものです。

しかしいわゆる「忠臣蔵」は、厳密には「事件を元にしたフィクション」のことです。

 

赤穂浪士による屋敷の襲撃自体はありました。

江戸を揺るがす大事件でした。

そしてその後、この事件を題材とした歌舞伎や人形浄瑠璃がたくさん作られました。

今でいうところの「映画化決定!」ですね。

 

て、その映画……じゃなくて歌舞伎用の原作を作る際に、どうやら脚本家がオリジナルアレンジを色々と入れたようなのです。

 

この話のクライマックスは、赤穂浪士による吉良屋敷討ち入りです。

それを盛り上げるためには、襲撃した赤穂浪士の正当性とが必要です。

そのためには、その発端となった浅野長矩の刃傷沙汰にも理由が必要です。

 

その結果、「忠臣蔵」という話の世界では、

「江戸城にて、若い浅野は指南役の吉良に対する賄賂が足りなかったために嘘を教えられたり必要な事を教えてもらえなかったりした」

ため、松の廊下で浅野とすれちがった時に

「いよいよ浅野は堪忍の緒が切れて」

斬りかかるに至ったとなっています。

赤穂浪士は、

「そんな主人の無念を果たすために、仇討ちを決行した」

というわけです。

 

吉良家は高家(こうけ)と言って、幕府の儀式などの取り仕切りができる数少ない名門でした。

そしてこの年は、江戸城が朝廷からの勅使を迎えるイベントを取り仕切る代表として勤務していました。

その吉良の補佐役として働いていたのが浅野でした。

 

浅野がキレたのは、そんなイベントの最終日です。

接待係が刃物を振り回しちゃったものですから、朝廷に威信を見せつけるつもりの幕府は面目丸つぶれです。

即日切腹とお家取り潰しは、やむを得ない措置といえます。

 

しかし浅野を打ち首(罪人扱い)にしないで切腹(武士扱い)としたのは、その厳しい判決に対する温情とも解釈できます。

 

さて、「賄賂」の件ですが。

 

挨拶代わりの「心付け」は、当時は普通に行われていました。

それが賄賂と呼ばれるレベルになっていた可能性も充分にあります。

しかし、吉良家は浅野家に対して石高はずっと少ないので、要は金持ち相手の指南役で飯食ってるような立場です。

指南役は他にもいますので、評判が下がったらクビの可能性もある中、そこまで浅野に対して横柄な態度を取れるものなのか、という疑問が残ります。

 

さらに実は、この二人のペアによる接待は、これが二度目のことでした。

すでに一度、同じ役をそつなくこなしていますので、少なくとも一度は必要なことを教わっているわけです。

さらにさらに、そもそも今回の準備期間は、吉良は京に出張に行っていて、江戸の浅野はほぼ一人で準備をしているのです。

浅野は吉良に斬りかかるときに「この間の遺恨覚えたるか」と叫んだそうですが、

この間?

一人で準備させられた恨みとか?

 

一方、吉良は浅野に対して刀に手をかけなかったために、一方的な被害者としてお咎めなしでした。

喧嘩両成敗が普通だった世での二人の処分のギャップは江戸でも話題になって、その後の赤穂浪士の逆襲劇も、いつか起こるだろうと噂されていたようです。

しかも吉良は武士としては最悪の弱虫扱いです。

 

最近は、

「浅野は元々キレやすい性格だった」

「吉良は地元では名君だった」

という方向での検証をよく見かけます。

しかし吉良の名君説も、吉良の地元が不名誉を被りたくないために話を盛った可能性もあります。

 

また、主君の仇討ちとして討ち入りした赤穂浪士も、本当は、取り潰しなって無職になった逆恨みの可能性もゼロではありません。

 

結局、今回の実行犯である赤穂浪士達は、浅野長矩同様、武士としての切腹を命ぜられました。

また、討ち入り後は吉良義央の罪が再検証されて、最終的に吉良家は断絶に至ります。

幕府としては、このあたりが騒ぎを収める「落としどころ」だったのでしょうね。

 

桜田門外の変の話は、次回に回すことにします。

紙面が尽きてしまいました。

 

学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義

あすなろ169 私的水族館案内(過去記事)

あすなろ

 

 

 

2015.11号

 

我が家は夫婦で水族館が好きです。

 

子供がいない頃や小さかった頃までは、二人(もしくは二人半くらい)で、あちこちの水族館に行きました。

 

いや、水族館はいいですよ。

動物園と比べるとよくわかるのですが、

 

1.夏でも暑くない

 

2.冬でも寒くない

 

3.展示から展示までの距離が短い

 

4.坂を上ったり下りたりが少ない

 

んん?

並べてみると、なんか消極的な理由ばっかりですがどうしてでしょう。

ついでに言うと、博物館も好きなのですが、理由は……

あまり気にしないことにしましょう。

 

茨城で水族館といえば、もちろん大洗のアクアワールドでしょう。

私は何回行ったかわかりませんが、少なくとも5~6回は行っているはずです。

 

アクアワールドになる前の大洗水族館にも一度は行っているはずなのですが、あんまりよく覚えていません。

よくある地方の水族館で、「ふーん」なレベルだったからだと思います。

 

しかし、アクアワールドになってからは、相当よくなりました。

水族館としては多分、全国レベルでもかなり大規模な方だと思います。

 

ここの売りは、サメ関係の展示です。

種類数は日本一を謳っています。

さらに、生きた卵発生(卵の中で育つ様子)が見られるなんて、多分他ではありません。

生きたマンボウもいますが、これも他の水族館ではまず見られません。

 

私の個人的なお勧めは、エトピリカです。

エトピリカというのは、北の方に住んでいる海鳥なのですが、こいつらは空も海中も同じように「羽ばたいて飛ぶ」んですよ。

 

 

 

なお、泳ぐ水鳥は色々いますが、空も海も同じように翼で推進するのは、このツノメドリ(パッフィン)の仲間だけです。

それ以外の鳥と言えば、翼で泳ぐペンギンは飛べないし、ウは飛べるけど水中では翼を使わずに足だけで推進するし、カツオドリは確かに翼を広げて潜水するけどあれば舵ですからね。

 

確かエトピリカは、初めてアクアワールドに行ったときにはいなくて、途中から追加されたと思いました。

今では当たり前のようにいますが、わたしゃ最初にこれを見たときには感動しましたよ。

だってそれまでは、写真でしか見たことがなかったんですよ。

本当にこの感動を分けてあげたいあなたにも。

 

アクアワールドの話に戻りますと、館内にミュージアムショップ(土産物屋)が2軒あるとか、食堂で海鮮丼が食べられるとか、そんなのも何げにここだけです。

県外の水族館に行って失望しないように。

特に、都内のハシゴできるレベルの数カ所のアレとか。

ただ、あれはあれで楽しめるんですけどね。

 

千葉の鴨川シーワールドも、面白いところです。

シャチのショウは多分ここだけですし、ベルーガの飼育もここが一番最初らしいです。

一度シャチショウを見てしまうと、その後はイルカのショウが迫力不足に見えてしまうでしょう。

(犬吠埼マリンパークを除く)→※

 

福島のアクアマリンにも一度だけ行きました。

サメが通る度に引っ込むガーデンイール(チンアナゴ)には癒やされます。

サンマの遊泳という珍しい展示もあったのですが、地震の後は、やっていないそうです。

 

八景島シーパラダイスには、カミサンと二人でクルマで行きました。

ゴールデンウイークだったので、もう首都高から渋滞で、現地に着いてからもものすごい人の数で、一通り見たのですが「もういいや」でした。

ここは、遊園地のオマケであって、水族館を目的に来るところではないのだろう、というのが我が家の結論です。

人がもう少し少なければなあ。

 

大洗のアクアワールドができる前に何度も行ったのが、静岡県清水の三保にある東海大学海洋科学博物館です。

入ってすぐのタツノオトシゴ各種は、何回行ってもいいです。

ここの面白いところは、あくまで「海洋博物館」ですので、海そのものに関する展示が多いところですね。

地震から津波が発生するまでの水の動きは、ここで初めて理解しました。

 

また、すぐ隣には人体博物館もあって、ここでしか無い展示が必見だったのですが、何年か前に無くなってしまいました。

あと、同じ敷地内では、ヘラヤガラとかクマノミとかの変な「鯉のぼり」が上がっています。

 

三重の鳥羽水族館には一度だけ行きました。

(子供の頃に連れていってもらったのは除く)

ここは、でかいです。

アクアワールドができる前だったので、なおさら感激しました。

 

ここにはスナメリ、ジュゴン、マナティがいます。

最近では、「絶食を続けるダイオウグソクムシ」でも有名になりました。

全体的に子供向けじゃない雰囲気の水族館です。

 

今年の夏は、沼津の深海水族館に、ダイオウグソクムシを見に行きました。

ずっと前から、目黒寄生虫館と並んで行きたかった場所です。

規模は小さいものの、国内唯一のシーラカンス標本など、なかなか良かったです。

 

愛知県蒲郡の竹島水族館というところもとても小さいのですが、巨大なタカアシガニが水槽みっちりに詰まっているという光景は、絶対にここでしか見られません。

タイミングが合えば、

「オオグソクムシやタカアシガニを触れるタッチプール」

というすごいものもあるとか。

以前は、アカウミガメやアオウミガメも普通に触れるところを泳いでいたのですが、今はどうでしょう。

しかもここ、入館料は大人500円です。

一体どうなっているのでしょう。

ただ、建物は超古いです。

 

大阪の海遊館には、ただジンベエザメを見るだけのために、宿を取って泊まりがけで行きました。

当時、ジンベエザメが見られるのは、海遊館以外では沖縄の美ら海水族館だけだったのです。

 

海遊館という施設自体、

「巨大水槽を覆うために建物を作ったら八階建てになっちゃった」

という構造で、よくある大水槽のレベルを超えています。

そこまで巨大な水槽ですので、5メートルクラスのジンベエザメが2頭入っても、余裕で泳げちゃうわけです。

 

と称えても、沖縄美ら海水族館はもっとでっかいらしいですね。

水槽の深さは10メートルだとか。

水族館オタクとしては、いつか一度は行かないといけない聖地です。

 

それだけ好きな水族館ですが、ここ数年は、本当に滅多に行かなくなってしまいました。

 

というのもですね、

子供がですね、

水族館に行こうといってもですね、

「水族館?飽きた」ということになってしまってですね、

うん。

 

学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義


※2018.05追記

犬吠埼マリンパークは、2018年1月で閉館となってしまったそうです。

この水族館は全体的に狭いため、イルカショウの水槽と客席が非常に近くて、普通ではありえない近さでイルカが飛ぶという面白い所でした。

そういった意味での「迫力」です。

 

古い水族館でしたので、施設の老朽化に伴う閉館ということです。

あすなろ28 日本における世界一(過去記事)

あすなろ

 

 

 

2004.02号

 

年が明けました。

大相撲も始まりました。

 

先場所の開幕中は、「大相撲ダイジェスト」のない空しい毎日を過ごしたわけですが、今場所からなんと、それに代わる番組が始まったではないですか。

しかもNHK様自ら。

いやいや、ありがたいことです。

その名も

 

「大相撲 幕内の全取組」

 

……。

 

この、そのまんまの番組名。

素敵すぎます。

ここまでハイセンスな番組名には、なかなか出会えるものではありません。

 

しかし、内容は申し分なし。

 

「大相撲ダイジェスト」は、放送時間が短くなる度にセットをいじって、なんとか見た目で勝負しようとしていましたが、こちらは夕方の中継を編集しただけ。

見たいのは相撲なんだから、これでいいんですよ。

さすがはNHK様、わかってらっしゃいます。

 

ところで、この番組の前に、ニュースが放送されます。

その日も「全取組」を見るべく、前番組のニュースを見ながら、正座して待っていました。

するとニュースの中で、

 

「それでは大相撲初場所、本日○日目の結果です」

 

……は?

 

ちょちちょっとまった!

テレビオフ!

 

 

危なかった。

もうちょっとで楽しみが減るところだった。

勘弁してくれって。

 

NHKちゃん。

お願いですからもうちょっと考えて構成してね。

 

横綱の朝青龍、今場所は余裕があっていい感じです。

その辺は観客にも伝わっているみたいで、「日本一!」なんて声もかかっていました。

モンゴル人の彼としては複雑なところかもしれません。

相撲なんだから、日本一=世界チャンピオンです。

どうせだから、誰か「世界一!」って云わないかなあ。

掛け声のセンスとしてはアレですけど。

 

そういえば、千葉県の小見川あたりを自転車で走っていたら、「世界一の納豆工場」という看板を見ました。

確かにそのとおりなのかもしれませんが、なかなか大胆で素敵です。

 

そこまではアレですが、身近なところにも、結構こんな風に「世界一」のモノってあるんですよ。

あるんですって。

 

例えば、この近辺にもいるオオスズメバチ、あれは実は世界一大きいハチです。

もちろん毒の強さも世界一。

オオスズメバチはほかのハチの巣を襲うことでも知られていますが、他の国にはそんな獰猛な習性を持つハチはいません。

 

大きい昆虫と云えば、沖縄・与那国島他にいるヨナグニサンも、世界一大きいガです。

一般的に、昆虫は南方に行くほど大型化するので、大抵は赤道直下の昆虫が最大です。

従って、この二種は珍しいパターンです。

 

ところで、日本が誇る世界一と云えば、普通は長寿とかロボット技術などが取り上げられます。

他にも世界一長いトンネル(青函トンネル)とか、世界一長い吊り橋(明石大橋)とか。

そういう「メジャーなもの」以外の、意外に思えるような世界一が、思ったよりもあります。

挙げてみましょうか。

 


●鰹節=世界一堅い食品


 

他にも堅い食べ物はあります。

中国の乾鮑(カンパオ=干しアワビ)は、堅くてそのままでは食べられません。

ヨーロッパの干し肉も、そのままではかなりの堅さです。

しかし、機械で圧力をかけて測定すると、圧倒的に鰹節が堅いそうです。

 


乾鮑と干し肉は、一定の圧力がかかるとぐにゃっと曲がってしまいますが、鰹節は一定の力がかかると、ものすごい音を発して『バーン』と割れます。


(東京農大教授・小泉武夫氏の文より)

 

だそうです。

 

鰹節の作り方だけでも一話できちゃうのですが、確実に話が長くなるので割愛します。

(後に書きました→あすなろ91

 


●打ち上げ花火=世界一華麗


 

打ち上げ花火自体は、確かに他の国にもあります。

あるにはあるのですが、ショボいんです。

色も大きさも。あんな華やかな色の、あんな大玉が、あんなきれいに丸く揚がるのは、日本だけです。

 

違いは、打ち上げる玉の構造にあります。

 

日本の花火玉は、球形をしています。

その中には、「星」と呼ばれる小さな球状火薬が並べられています。

そしてさらに、この「星」の中も、ちがった色の出る火薬が層になっています。

「星」が、中央の割り火薬の爆発力で四方八方にとばされ、光の色を変えながら丸く咲くので、あんな綺麗な花火になります。

 

これに対し、外国の花火玉は円筒型です。

中に入っている火薬も、凝った色を演出しようとしていないので単調です。

もちろん変化に乏しく、また丸く広がらないので立体感に欠けます。

日本の花火玉は世界で認められ、現在80余りの国に輸出されています。

 

毎年10に、土浦で全国花火競技会が開催されています。

あれはまさに、世界一の大会ということになります。

 


●積雪=世界一雪の深い国


 

世界一の積雪量は、日本で観測されています。

これ、知らない人も多いと思います。

私も最近まで知りませんでした。

 

現在、最深積雪の世界記録は、滋賀県伊吹山の11m82cmです。

1927年2月14日に観測されました。

二位はカリフォルニア州の11m53cmです。

 

実は、日本という国は、世界的にも有数の豪雪国です。

この頃になると、新潟で「一晩で1メートル」なんてニュースが流れてくる頃ですが、こういう国はそうありません。

 

雪の量は、気温だけでは決まりません。

日本国内でも、北海道の方が寒いのに、新潟の方が雪が多いですよね。

これには地理的な理由があります。

 

まず、雪が降るには、空気中に水蒸気が多く含まれている必要があります。

そういう空気が山に沿って上昇して、気温が下がると、空気中に含まれることのできる水蒸気の量(飽和水蒸気量)が減って、あふれた分が雪(気温が高いときは雨)になります。

 

空気は、海や大きい湖の上通過すると、多くの水蒸気を取り入れることができます。

水を含んだ直後に山があれば、雪を多量にふらせることができます。

 

そういった条件を満たす風が吹くのは、日本では北陸地方にあたるわけです。

(大陸→日本海→日本アルプス)

他にも、アメリカのカリフォルニアや、スカンジナビア半島などが、同様の理由で豪雪地帯となっています。

 

ただ、同じような気候でも、日本の北陸ほど、多くの人が高密度で住んでいるところはありません。

さらに、重い雪質まで考え合わせると、北陸は世界一の豪雪地帯とも云えるでしょう。

 

学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義

あすなろ198 身近なブランド

あすなろ

 

 

 

2018.04号

 

この「あすなろ」は、月謝発行から1ヶ月遅れで塾のサイトにアップしています。

しかし最近、塾のサイトをスマホ対応にリニューアルしたら、過去の記事が使えなくなってしまいましたので、ここの所はヒマを見つけてはボチボチとアップしなおしています。

 

そんなわけで、昔の記事をまた読み直す機会が増えているのですが、そんな中でNO.170(2015.12)を見たら、

『シルバーストーンのフライパンにご飯をあけて』

なんて記述を見つけました。

 

当時、特に何も考えずに当たり前の言葉として使ってしまったようですが、シルバーストーンって言われても、少なくとも高校生以下にとっては、きっとあまり一般的な用語じゃ無いですよね。

 

何のことだかわかります?

 

これは、フライパン内面のコーティングの商標です。

あの黒いツルッとしたアレです。

 

昔々の鉄そのもののフライパンに対して、コーティングされたフライパンが登場した当初は、「テフロン加工」と呼ばれていました。

そして次に、そのバージョンアップとして「シルバーストーン」が出たわけですが、今ではコーティングがすっかり当たり前になってしまったので、もうそんな呼び名はすっかりされなくなってしまいましたね。

 

フライパンそのものも、今や一般家庭では、鉄製のものなんてほぼ見かけなくなりました。

みんなアルミです。

 

そんなアルミのフライパン、我が家には大小合わせて4本あるのですが、全て北陸アルミニウムというメーカー製です。

この手の物と言えば韓国製中国製が席巻する中、我が家のフライパンは全て日本製です。

 

でも、大抵の人はそんなブランド知りませんよね。

そこで今回は、この手の

「普段は意識したことの無いようなブランド」

を、あえて紹介してみようと思います。

 

1.北陸アルミニウム(hokua)

 

先述の通り、我が家のフライパンがここの製品です。

また、たまたま実家からもらった圧力鍋もここ製でした。

 

創業は昭和5年。

本社は富山県。

調理器具以外にも、建材や工業製品を作っているようです。

フライパンでは韓国や中国製造の製品も扱っていますが、上位モデルは日本製です。

長持ちするフライパンが欲しかったら、ティファールかここの製品が一番確実です。

 

※個人的には、ティファールの外れる取っ手は、金具が洗いにくくて嫌いです。

 

ここのフライパンは、以前はホームセンターでも普通に見かけましたが、最近は中国製しか並ばなくなってきてしまいましたので、今や買うとしたら通販となるのでしょうか。

私も最後に買った時は楽天経由でした。

 

2.カリモク(Karimoku)

 

国内家具メーカーのトップです。

我が家のこたつ兼卓袱台(ちゃぶだい)がカリモク製なのですが、タンスは残念ながら違います。

 

創業は昭和15年。

ブランド名は「刈谷木材」を略したものです。

刈谷とは愛知県刈谷市を指しているのですが、現在の本社は、刈谷からは少し外れた位置にあるようです。

 

製品は、国内工場で生産された国産品です。

マレーシアにも部品工場はあるようですが、中国とは縁が無いようです。

そういう意味でも非常に信頼できる会社なのですが、その分少し高めですので、家具の量販チェーンなどでは少量しか見かけません。

 

3.パロマ(Paloma)・リンナイ(Rinnai)

 

ガス器具メーカーの国内トップ2です。

我が家ではガスコンロがリンナイ製、ガス炊飯器がパロマ製です。

特にガス炊飯器はずっとパロマで、現在使っているのは3台目です。

 

創業は、パロマが明治44年、リンナイが大正9年です。

共に愛知県名古屋市の会社で、ずっとパロマの後をリンナイが追う形だったのですが、パロマが湯沸かし器の死亡事故(2006年)を起こしたことをきっかけに逆転したようです。

 

リンナイは、つくば市の北部工業団地にもビルがありますね。

工場には見えないので、どうも研究施設のようです。

 

なお、石油器具関係でいうならば、我が家の灯油ボイラーと灯油ストーブがコロナ製です。

コロナは、堰結暖房器具トップのダイニチと共に新潟県三条市のメーカーで、こちらも同郷ライバルとなっています。

 

4.象印マホービン・タイガー魔法瓶

 

象印は大阪府大阪市、タイガーは大阪府門真市で、こちらもまた同郷2大メーカーです。

メーカー名を比べて見て頂くとわかるのですが、象印は漢字+片仮名、タイガーは片仮名+漢字をメーカー名としています。

 

創業は、象印が大正7年で、今年2018年は創業100年です。

タイガーは少し後の大正12年創業です。

 

その後は魔法瓶(保温ポット)の2大メーカーとして発展して、1970年にタイガーが電子炊飯ジャーを発売すれば同年に象印からも発売されたり、エアーポットは象印が1973年、タイガー1974年、電気ポットは共に1980年と、ずっと2大メーカーであり続けました。

 

現在、この会社名を見かける機会は、炊飯器とステンレスボトル(保温式水筒)が多いかと思います。

 

ステンボトルといえば、特許の関係なのか各メーカーのパッキンの形状がバラバラで、洗う方としては非常に面倒なことになっていると思います。

しかしその中で、象印とタイガーは面白いことに、形式がほぼ同じなんですよね。

だからと言って、互換性があるわけではないのですが。

こんな所までライバルなのかー、なんて思ったことがあります。

 

なお、ステンボトルといえば、他にピーコックやサーモスの製品も見かけますが、共に日本のメーカーです。

また、サーモスはステンボトルのシェア世界一です。

 

5.ノリタケ(Noritake)

 

どうも案外知られていないようなのですが、世界的に有名な陶器のブランドです。

私も何年もの間、塾でノリタケのコップを使っていたのですが、1年ほど前に割ってしまいました。

(今のコップはリラックマです)

 

創業は明治37年。

戦前から海外でも名を知られていて、戦前のものはオールドノリタケと呼ばれて骨董扱いされています。

現在も、国内の洋食器ではトップメーカーです。

 

また、ノリタケ創業家の作った財閥(森村グループ)には、トイレ関連製品のTOTO、スパークプラグの日本特殊陶業(NGK)、電線の碍子(がいし)を作っている日本ガイシが含まれていまして、それぞれが国内トップのメーカーです。

グループ全体としては、世界最大のセラミック関連企業となっています。

なお、トイレ関係といえば、もう一つINAXという会社がありましたが、こちらも実は同じグループ会社でした。

ただINAXは現在、トステムが中心になって立ち上げたLIXILに合併したために、同グループから外れています。

 

まだまだ他にもあります。

ドライバーのベッセルとか、エアコン世界一のダイキンとか、楽器世界一のヤマハとか、ジッパー世界一のYKKとか、オイルシール世界一のNOKとか……。

オイルシールは身近じゃないかな?

 

でも今回はこのへんで。

 

学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義

あすなろ76 数詞、助詞「へ」(過去記事)

あすなろ

 

 

 

2008.02号

 

あけましておめでとうございます。

今年も当塾をよろしくお願い致します。

 

最近、朝は毎日寒いですね。

私は毎朝、小学校の通学班の集合場所まで、一年生の子供と一緒に行っているのですが、こいつらよくこの寒い中行くわなんて、毎朝考えています。

 

小学生ともなると、まわりにポケモンをやっている子供が、急に増えるようになりました。

幸い、ウチの子はあまりゲーム自体には興味がないようですので、それはそれで助かっているわけですが、会話を聞いていて、一つ面白いことに気づきました。

 

ポケモンというのは、基本的に「RPG」という形式のゲームですので、戦って経験を積んで、「レベル」の数値が上がっていきます。

そのレベルは、ポケモンの場合はレベル1からレベル100まであり、ゲーム内での表記は、レベル5ならば「Lv.5」となっています。

 

さて小学生。

このレベルの呼び方が、ぼくらのような古いゲーム人とは、少々違うのです。

「今レベルいくつ?」ではなく、

 

「今なんレベ?」

 

「50レベルになった」

 

なんて会話をしています。

「レベル50」ではなくて、「50レベル」なんですねえ。

 

この言い方、思えば他の地域でも聞いたことがありました。

単なる地方性なのかもしれませんが、考えてみると、こっちのほうが、日本語として自然な呼び方なんですよね。

だって日本語では、数詞は数字のあとにつけるものですから。

 

具体例を出すまでもないのですが、数えるときには一枚二枚ですし、一個二個です。数詞は全て、数のあとです。

小学生は、数詞のあとに数字をいれるというレベル表記を、直感的に日本語として自然な形に変えたのでしょう。

先入観がない子供だからこそできることなのだと思って、軽く感動しています。

 

(この話は、後に詳しく取り上げています→あすなろ140

 

台所の洗い物をしながらそんなことを考えていたら、面白いことにまた気づきました。

 

数詞には、音便変化する物があります。

例えば、一本(ん)二本(ん)がそうです。

色々と考えていて、ちょっとした分類ができることに気づきました。

 


●一般和数字標準群

回: いっかい にかい さんかい

艘: いっそう にそう さんそう

 

●一般和数字音便群その1

階: いっかい にかい さん

軒: いっけん にけん さん

 

●一般和数字音便群その2

本: いっん にほん さん

匹: いっき にひき さん

偏: いっん にへん さん

 

●一般和数字音便群その3

班: いっん にはん さん

辺: いっん にへん さん

 

●原型和数字群・特殊群

月: ひとつき ふたつき みつき

人: ひと ふた さんにん

日: ついたち ふつか みっか

 

●漢数字群

枚: いちまい にまい さんまい

台: いちだい にだい さんだい

 

※この分類法は、私の勝手な思いつきと命名によります。学術的には全く意味がありませんので一応。


 

以上の中で、注目すべきは回と階、偏と辺です。

基本形を読む音が同じでも、その意味によって変化の仕方が違うんですね。

 

このような音便が変化する法則は、数詞の最初の文字によって機械的に変わるのだろう、と最初は考えていました。

英語で、母音の前に「a」をつけるときには「an」に変わる(an apple)というようなものと同じだろうと思ったからです。

また日本語でも、五段活用する動詞の連用形では、音便変化は、そこそこの規則性があるような気がします。

(あまりちゃんと調べていないので、例外があったらごめんなさい)

 


例 活用語尾が「つ」の五段活用は、連用形の音便変化が「っ」になる。

待つ→待った

立つ→立った

放つ→放った

他にも、活用語尾が「く」なら、連用音便は「い」になる(巻く→巻いた 開く→開いた)など。


 

ですから、回と階のような違いに気づいたときには、少し驚きました。

どういう由来から、こういう違いが生じたのでしょう?

 

というわけで、今回私が上に揚げたグループの、違いを生じる理由

 

~三回と三階は、なぜ読み方が違うのか~

 

を、誰か研究してみませんか?

 

日本語の発音の話といえば、もう一つあります。

これも私の身の回りの話ですが。

 

最近、私の下の子(五歳児・幼稚園年中組)が、妙な日本語を使うようになってきました。

 

「さっきの猫が、あっちへ行った」

 

ね。

変でしょ。

 

……あれ?

何も変じゃないですか?

 

さて。

何が変なのだと思います?

 

今、私が伝えようとしていることは、実は口では簡単に伝わるのに、文章だと伝えにくい、という珍しい内容です。

 

最近のウチの子がやっていることとは、「あっちへ」を

 

「atchi-he」

 

と発音するというものなのです。

つまり、助詞の「へ」を「e」と発音せずに、「he」と発音しているのです。

 

逆は、よく聞きますよね。

低学年の作文で、「あっちえ」と書いてしまうというやつです。

悪い見本として、「は」「を」と共に、小学校の国語の教科書には必ず登場します。

 

もちろんこれは、耳で聞き、口で話す「話し言葉」と、字で書く「書き言葉」のギャップからくる間違いです。

ただしその原因を考えると、「話し言葉を先に知っていたから」という大前提があるように思えます。

 

それがウチの子の場合は、おそらく「書き言葉を先に知った」のでしょう。

これはもしかしたら、国語の教科書的には、少々特殊な例にあたるのかもしれません。

 

しかしよく考えてみると、日常会話で「へ」は、あまり使わないことに気づきます。

普段、方向を表す助詞って、「に」ですよね。

私の日常会話の範囲ではそう思えるのですが、いかがなものでしょうか。

百年後の辞書には、助詞「へ」は「文学的表現」とか書かれているかもしれません。

大げさか。

 

さて。

 

先日、ウチのカミサン宛に、一枚のはがきが届いた時のことです。

一枚のはがきだけどはがして広げられるタイプのはがきを、最近よく見かけますよね。

あれです。

で、子供はこれをはがしたくてたまりません。

 

「これ開けていい?」

 

「お母さんに来たやつだから、お母さんに帰ったら聞いて」

 

「かあちゃん屁か」

 

「かあちゃん『へ』じゃなくて、『え』ね」

 

……いつ治るのかなあ、これ。

 

学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義

 


追記

私の故郷(愛知県三河地方)では、助詞の「を」を、「wo」と発音していました。

ですから、音楽の時間に先生がわざわざ、

「「を」は「お」と発音すると、きれいに歌えますよ」

などと言って、みんな意識して「お」と歌うようにしていたものです。

今回の助詞「へ」も確か、「he」と発音する地方があると聞いたことがあります。

共に、昔の発音の名残です。

あすなろ134 イモ(過去記事)

あすなろ

 

 

 

2012.12号
 
 

こんにちは。
 
ジャガイモ派です。
 
 
 
世の中の人は、
イモが好きといえばサツマイモのことを考える場合が多いようですが、
私の中ではジャガイモが圧倒的勝利です。
 
どうもすみません。
 
 
 
サツマイモも、そんな嫌いってわけじゃないのですが、
特に喜んで食べるという程は好きではありません。
 
焼き芋屋さんががんばっていても、ふーん、てな感じです。
 
しかし、スーパーに行って新ジャガを見ると、
おしりがそわそわしてくるような、そんな私です。
 
 
 
日本で普通イモといえば、
あとはサトイモとヤマイモといったところでしょうか。
 
その4つの写真を、ちょっと並べてみます。
 
 
 

 
 
 
いやー、ぜんっぜん違いますよね。
 
 
 
植物学的には、
ジャガイモはナス目ナス科の植物ですが、
サツマイモは同じナス目でもヒルガオ科で、
サトイモはサトイモ目サトイモ科、
ヤマイモはユリ目ヤマノイモ科、となっています。
 
また、ジャガイモとサツマイモは双子葉植物で、
サトイモとヤマイモは単子葉植物です。
 
このあたりを習った人ならわかるとは思いますが、
そりゃ全然違うわけです。
 
 
 
そもそも、
「イモ」って何なのでしょう。
 
 
 
いつも頼りにしているwikipediaでは、
 
 
 


 
芋(いも)とは、
植物の根や地下茎といった地下部が
肥大化して養分を蓄えた器官である。
 
特にその中で
食用を中心に人間生活の資源として
利用されるものを指すことが多い。
 
但し、通常は
タマネギのような鱗茎は含めない。
 


 
 
 
……となっていました。
 
 
 
ふーん。
 
じゃあ大根はイモ?
 
ショウガは?
 
 
 
紙の辞書も見てみましょうか。
 
 
 


 
●ベネッセ チャレンジ国語辞典
 
 
 
植物の地下茎や根に養分がためられて大きくなったもの。
 
ジャガイモ・サトイモ・サツマイモなど。
 


 
 
 
うん。
 
これじゃ大根もイモですね。
 
 
 


 
●明治書院 精選国語辞典
 
 
 
【芋】形成文字。
 
意味を表す艸に、音を表す于を加えて、大きい葉の付く芋類の意を示す。
 


 
 
 
アホかお前。
 
「芋ってなあに?」
 
「芋のこと」
 
って会話になってないだろそれ。
 
 
 
じゃあ大野さんの角川は?
 
 
 


 
●角川書店 必携国語辞典
 
 
 
植物の根や地下茎が発達したもの。
 
ジャガイモ・サツマイモなど。
 


 
 
 
だめですね。
 
まだ大根もショウガもイモだ。
 
 
 
北原さんの明鏡。
 
 
 


 
●大修館書店 明鏡国語辞典
 
 
 
植物の根や地下茎が大きくなって、でんぷんなどを蓄えたものの総称。
 
サツマイモ・ジャガイモ・サトイモ・ヤマノイモなど。
 


 
 
 
ほほう。
 
でんぷんの表記が新しいですね。
 
さすが筑波大の元学長。
 
 
 
確かに調べてみると、
人参や大根では、
でんぷんよりも糖類の方が多く含まれています。
 
一方、ヤマイモやサトイモには
でんぷんというイメージが無かったのですが、
実はでんぷんが主成分のようです。
 
このあたりが結論でしょうか。
 
 
 
面白くなってきたので、ついでに大辞泉。
 
 
 


 
●小学館 大辞泉
 
 
 
植物の根や地下茎が肥大して、
でんぷんなどの養分を蓄えているものの総称。(後略)
 


 
 
 
残念。
 
明鏡そっくしでした。
 
 
 
最後に重鎮広辞苑。
 
 
 


 
●岩波書店 広辞苑
 
 
 
①サトイモ・ツクネイモ・ヤマノイモ・ジャガイモ・サツマイモ
などの総称。
 
(②は略)
 


 
 
 
そう来たか。
 
ある意味、一番正確ですね。
 
新明解が手許に無いので、優勝決定です。
 
 
 
とまあ、
ちょっと長くなってしまいましたが、
要するに肥大した根っこは、
みんなイモと呼んで差し支えないようです。
 
これだけ書いておいてアレですが、
個人的には、
ショウガや葛根も広義のイモだと思っています。
 
特に葛は、主成分がでんぷんですし。
 
 
 
ちなみに英語には、
日本語のイモにあたるような総称が無いようです。
 
根菜 root vegetable という言葉はあるのですが。
 
 
 
そんなイモですが、
最初に挙げた四つのうち、
ヤマイモは日本に古来よりありました。
 
生物学的にも、日本原産の品種です。
 
芥川龍之介の有名な短編
『芋粥』の芋粥も、
ヤマイモとアマヅラという甘味料で煮た粥でした。
 
 
 
サトイモはマレー原産らしいですが、
日本に伝わってきたのは縄文時代ごろだということですから、
こちらも歴史が長いですよね。
 
各地で実施される「芋煮会」の芋もサトイモです。
 
また、世界各地で主食にされているタロイモは、
サトイモと同じ仲間です。
 
 
 
この二つは、
ヤマ(山)とサト(里)と対になっているところからも、
日本ではこれが本来のイモなのでしょう。
 
 
 
一方、サツマイモは、
江戸時代に儒学者の青木昆陽が、
甘蔗という名で広めたことで有名ですね。
 
享保の大飢饉で懲りた徳川吉宗が、
飢饉対策に大岡忠相(大岡越前)を通じて
青木昆陽に命じたのだということです。
 
その後も大飢饉は何度か起こっていますが、
サツマイモの普及率の高かった西日本では、
東北よりも被害が少なく済んでいるようです。
 
 
 
サツマイモは最初、
 
「味が栗(九里)に近いから『八里半』」
 
だとか、
 
「『栗(九里)より(四里)うまい十三里(9+4=13)』という呼び名で広めた」
 
と子供の頃に読みました。
 
 
 
しかし江戸時代の頃のサツマイモは、
今に比べて小さくて甘味も少なかったようです。
 
今のようなサツマイモが作られるようになったのは
明治以降のことで、
十三里の呼称も明治の話なのだそうです。
 
 
 
そして、我が愛するジャガイモは、
南米原産です。
 
16世紀に、スペイン人によって
ヨーロッパに伝わったのが最初でした。
 
ということは、
ドイツやイギリスのジャガイモ料理は、
安土桃山時代以降ということになります。
 
 
 
日本にも、
江戸時代初期に伝わってきていますが、
普及したのはサツマイモより遅く、
江戸末期だったようです。
 
これには、若いイモや芽に毒が含まれることと、
連作障害が起きやすいことも要因としてあったようです。
 
 
 
あと、ジャガイモの名は、
ジャワのジャガタラ(現ジャカルタ)に由来します。
 
これは小学生の頃、
国語の教科書で知りました。
 
 
 
国語辞典の迷走っぷりは、
こんなネタにもしています。
 
 
 
学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義

あすなろ88 地球温暖化(過去記事)

あすなろ

 

 

 

2009.02号

 

遂に、下妻まで来てしまいました。

 

下妻市内のスーパーでも、レジ袋無料配布をやめるみたいですね。

エコとか言いながら安っぽいバッグを売っていますけど、どう見ても単なる新商法です。

周囲の同業者と結託して始めるあたりに、競争原理に反する胡散臭さが、どうにも消えないわけですが。

 

つくば市内では、昨年からこれが始まっています。

私の実家の親によると、愛知県の方でも、すでに同様の状況らしいです。

 

先にお断りしておきますが、私は「省エネ」自体は否定しません。

有限のエネルギーを有効に使うという方針には、賛同します。

しかし、その方便として使われるエコという言葉が嫌いなだけです。

エコじゃなくてエゴだろ、と常々思っています。

ええ偏屈ですみません。

 


ちなみに、Ecological Biologyとは「生態学」です。

「環境生物学」はEnvironmental Biologyです。

もうその時点で違うだろ、と思うわけでして。


 

さて、今やテストでも頻出問題となっている「地球温暖化」ですが、よく言われている

 

「地球の温暖化は、人間の排出する二酸化炭素のせいだ」

 

って、本当のところ、どうなんでしょう?

どう思います?

そのあたりの理屈について、調べてみたことがありますか?

 

さらには

 

「最近の異常気象は温暖化のせいだ」

「南極の氷は溶ける一方だ」

「近い将来、平野の大半は海に沈む」

 

等々、全部が全部、本当のことなのでしょうか?

 

(以下、「二酸化炭素」は「CO2」に統一します)

 

少し理屈を確認してみましょう。

だいたい、


①近年は大気中のCO2濃度が急増中

②CO2は温室効果をもつ気体である

③近年は地球の平均気温が上昇中

④つまり、人間の出すCO2が増えたためだ


……とまあ、こんな風に聞いていますよね。

 

私の調べた限り、①は事実のようです。

②も③も、事実であることを裏付けるデータが揃っています。

じゃあ④もいいじゃねえか、と思うかもしれませんが、お待ちください。

 

ここでは、実は重要な要素がいくつか伏せてあるのです。

 

まず、温室効果についての話です。

 

確かに、CO2には温室効果があります。

しかし、温室効果のある気体は、CO2しか無いというわけではありません。

 

結論を言いますと、地球上の温室効果のほとんどは、水蒸気が担っています。

ある計算によると、地球大気の温室効果の95%が水蒸気によるものです。

一方、CO2による温室効果は0.054%です。

この100年でCO2は35%増えましたので、大気の温室効果は0.0189%上昇したことになります。

こりゃ大変だ。

 

次。

地球の気温上昇について。

 

地球の気温は、確かに上昇しています。

具体的には、西暦1900年ごろと比較すると、現在は平均気温が約1℃高くなっています。

そのデータをもって「このままでは」という論法が温暖化派の常套手段なのですが、彼らはその前の気温の事を触れようとしません。

 

実は、現在の気温は、約1000年前と同じくらいなのです。

いやむしろ、1000年前の方が、まだわずかに高かったというデータもあります。

 

しかしそれを言うと、

「気温そのものではなくて上昇ペースの問題だ」

という反論が必ず返ってきます。

しかしその時に出すデータは、必ず過去データとは比較できないような短期的な変化です。

(1000年単位の過去の気温は、樹木の年輪や貝殻、花粉などから算出するため、あまり精密な変化は測定しきれない)

昔と比べる以上は、昔と同じ精度でデータを語るべき、つまり1000年単位の話をすべきなのに、何故か「肯定派」はそういうことをしません。

 

データといえば、こんなものもあります。

 

実は1940年ごろから1975年ごろまで、地球の気温は下がり続けていました。

当時は、北極の氷が増え続け、氷河は延び、「このままでは氷河期が来る」といわれていたのです。

そして現在、そのころと比べて減った、つまり、それ以前の状態に戻った氷河や流氷を指して、「地球温暖化」とか騒ぐのがマスコミの仕事です。

もちろん、当時は寒冷化と大騒ぎしていたことは絶対に言いません。

 

逆に、地球温暖化の否定派は、その時代の気温下降に異常にこだわります。

「CO2が増えているのに気温が下がっているよな」と。

 

共に、都合のいいデータしか使いません。

 

氷河といえば、南極の氷河が海面に崩れ落ちる映像をよく見ます。

しかしあれは、平均気温とは全く関係ありません。

単なる春の訪れであって、毎年必ず見られる風物詩です。

春の雪解けの写真を見せて「温暖化!」と言っているみたいなものです。

 

ついでに南極の氷の話をしましょうか。

 

南極の氷が溶けると海面が云々といいますが、大丈夫。

溶けません。

地球温暖化を国際的に宣伝しているIPCCですら、

「気温が上がると南極の氷は増加する」

と言っています。

周囲の海水の表面温度が上がると雲が増え、雪となって積もった氷は増えるのです。

溶けたらどうなるという心配は、全く無用です。

 

ついでにいうと、北極の氷は溶けても海水面は上昇しません。

アルキメデスの原理といいます。

 

では、温暖化によって沈みつつあると言われているツバルはどうなのか。

 

あそこは、珊瑚礁に土を盛って埋め立てた土地です。

戦時中、米軍が飛行場を作るために埋め立てました。

ところが珊瑚は、土に覆われると増えなくなります。

その結果、徐々に崩れてきたのが今の状態です。

あれは海面上昇ではなく、地盤沈下なのです。

 

100年で海面が17cm上昇している、という話もあるのですが、あくまで陸地に対する潮位(満潮と干潮の位置)を測定した記録です。

地盤沈下がある場所でのデータだとしたら、全く意味がありません。

ただ今では、衛星による正確な海水面のデータもあります。

こちらは潮位と違って正確な数値が出ているのですが、ここ10年余りのものしかありません。

つまり、海水面が上がっているかどうかは、まだ結論を出せないはずなのです。

 

そんなことよりも、一番の大前提である

 

「CO2増加→気温上昇」

 

は本当でしょうか。

 

氷床コアを調べると、気温とCO2の増減がわかります。

それによると、気温が上昇したその数百年後に、CO2が増加していることがわかります。

さらに、気温が下降して数百年後に、CO2が減少していることがわかります。

これまで何度調査しても、必ず「気温→CO2」なのです。

はい、逆ですね。

 

理屈は簡単です。

気体は液体に対して、温度が高い方が溶けにくく、温度が低い方が多く溶けます。

また、小学校の時には「地温が上がってから気温が上がる」と習ったかもしれませんが、水温はそれよりもさらに遅れて変化します。

 

つまり、

 

気温が上昇して海水温が上昇すると、海水に溶けていたCO2のうち、溶けきれなくなった分が空気中に放出される。

気温が下降して海水温も下降すると、CO2がより多く海水に溶けるために、空気中のCO2が減少する。

 

ということなのです。

 

気温のエネルギーは、その由来はほとんどが太陽です。

太陽の放射量の変化は、黒点の量によって推測できる上に、黒点は昔から観察記録が残っています。

それと平均気温の上下を照らし合わせると、これがなかなかいい感じに一致しちゃいます。

ただあくまで過去100年だけの話ですので、結論とはしませんが。

 

まだあるのですが、現状はだいたいそんな感じですよ。

また、「将来の気温シミュレータ」は、データの入力次第でいくらでも結果は変わります。

その上、水蒸気と雲による影響は、計算しきれないので無視しています

 

そうそう。

マラリアは、かつてソ連から北極圏にかけて大流行したことのある病気です。

「気温が上がるとマラリアが来る」も嘘ですよー。

 

ドラッグストア関係では、まだレジ袋を配っています。

その袋にでっかく「エコバッグ」と書いてスーパーに買い物に行く強者を募集中。

 

学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義

あすなろ161 家畜(過去記事)

あすなろ

 

 

 

2015.03号

 

新年明けましてしばらく経ちますが、頭の中が中々切り替わりません。

昨年は10月頃まで今年は何年だっけと迷うことがありましたが、皆様いかがお過ごしでしょうか。

 

ひつじ年です。

 

一般にヒツジといえば、羊毛を取るための「綿羊」のことを想像されるかと思われます。

私も同様です。

 

しかしこれは、完全な家畜として品種改良されたものです。

ブタやウシと同じですね。

 

漢字では、美・義・翔・善など、「羊」を部首として使ったものが数多くあります。

このことからも、中国には古代からヒツジがいたことがよくわかります。

さらに、漢字の由来を調べていきますと、ヒツジは神への捧げ物として使われていたようです。

もしかしたら、漢字が作られた頃にはすでに、家畜として飼育されていたかもしれません。

 

そんなヒツジですから、野生のヒツジなんてものは野生のヒトコブラクダみたいに、既にいないものかと思っていたのですが、ちゃんと現存するのですね。

ヒツジの原種、つまり野生種は、こんなんだと言われています。

 

上がムフロン、下がアルガリという種類です。

 

あれ?

君たち、なんだか超かっこよくないですか?

毛も普通にストレートヘアですし、角もでっかいし。

 

ちなみにこちらが普通の家畜ヒツジ。

上がメリノ種、下がサフォーク種です。

 

ああこれこれ。

ヒツジと言ったらこれですよ。

野生のヒツジからは、ずいぶんと変わったものですね。

 

ヒツジが家畜として飼育された痕跡は、古代メソポタミアの紀元前7000~6000年頃の遺跡が、最古のものとされています。

つまり、人類がヒツジを家畜にしてから、少なくとも8000年から9000年経っているということになります。

すごいですね。

 

ウシも、ヒツジ同様に漢字で部首になっていますが、こちらの家畜化は紀元前6000~5000年頃ということですので、ヒツジよりも1000年ほど新しいようです。

これは、ウシの原種がヒツジよりも大きく凶暴で、飼い馴らすまでには手間がかかったから、と考えられています。

 

なお、ヤギは、人類の家畜としてはヒツジよりももう少し古い歴史があるということです。

しかし漢字で書くとヤギは「山羊」、つまり、まずヒツジありきの命名ですので、アジアでは、家畜化されたのはヒツジが先だったのかもしれません。

 

あと、今では家畜と言っていいのかどうかわかりませんが、ネコもなかなか古くから、人類にとって身近な存在でした。

こちらは9500年前の遺跡において、人間と共に埋葬された跡が発掘されています。

こちらは、農耕を始めた人類が、貯蔵した穀物をネズミの被害から守るために、村に入ってきたネコを保護し始めたことがきっかけのようです。

 

しかし、なんと言っても人間と付き合いが長いのは、やはりイヌです。

 

イヌの原種はオオカミと言われています。

 

元々は、人間の食べ残しを拾うためになんとなく近づいてきたオオカミが、そのうちに一緒に暮らすようになったのがイヌだ、なんて言われています。

 

ただ、オオカミの一部がイヌという家畜になったのか、それともオオカミとは別のイヌという動物が全て家畜化されたのか、そのあたりはよくわかっていません。

 

1万2000年前の遺跡では、子犬に手をかけた姿で埋葬された女性が見つかっています。

つまり少なくともこの頃には、イエイヌという種類の動物が、人間と密着した生活をしていたことがわかっています。

 

さらに遡る、3万年以上前の遺跡でイヌと思われる骨が発見された例もあります。

最近流行の遺伝子解析では

「イヌのDNAの塩基配列に見られる変異が、1匹のオオカミのみに由来する場合(単系統)は、イヌの家畜化は約4万年前」

「複数のオオカミがイヌの系統に関わっている場合(他系統)は、約1万5000年前」

という報告もありますので、もしかしたらもっと古いのかもしれせん。

 

また、イヌの登場と同じ頃、人類の狩猟道具が石斧からヤジリに変化しているところから、

「人類は、イヌとの出会いによって狩猟方法が変わったのかもしれない」

という説まであるようです。

 

ところで、先にも少し書いたとおり、ウシやヒツジなどは、最初は凶暴な野生動物を無理に囲っていたはずなのですが、今ではすっかりおとなしい動物です。

イヌとオオカミも、随分と性格が違います。

そこで、オオカミはどうやってイヌとなっていたのか、そのプロセスを見つけようという研究が、ロシアでもう50年以上も続けられています。

 

研究では、素材にギンギツネが選ばれました。

キツネはイヌに比較的近いことと、家畜化されていないことが理由です。

 

まず、毛皮用に飼育されていたキツネの中から、おとなしそうな個体130頭を買ってきて交配します。

そして、その子供の中から、比較的おとなしそうな個体を集めて交配、という繰り返しをしていきます。

言葉で書くと簡単ですが、キツネが成獣になるまで1年かかりますので、非常に気の長い実験です。

 

すると、4世代目に、人間を見てしっぽを振るキツネが現れました。

9世代目の頃には、耳が垂れた子ギツネが誕生して、まだら模様のキツネも現れてきました。

そしてこの頃は、人間に対して甘えてクンクン鳴くようになっていました。

さらに何世代かあとでは、ひもを付けずに散歩しても、呼べば戻ってくるような個体まで現れました。

50世代目になると、85%の個体が人間に「甘噛み」をするようになりました。

つまり、「イヌ化」してきたわけです。

 

逆の実験も行っています。

 

人間に対して攻撃的な個体ばかりを交配していったらどうなるか。

その結果登場した攻撃的なキツネは、子供の頃から人に馴れたメスに育てられても、やはり人間に攻撃的に育つそうです。

ここから、行動を左右するのは、遺伝子の力が大きいのではないかと見られています。

 

それはそうと、我が家の庭に、まれにタヌキが現れます。

その度に、ああタヌキを飼い馴らしてみたいなあと思うわけです。

ということはつまり、まず130頭集めて……。

 

うん、無理っぽいですね。

 

学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義

新しい投稿ページへ古い投稿ページへ